-
NHKドラマの本気度
昨日はNHKドラマで2回も泣いてしまった。
1つは火曜22時「東京サラダボウル」の録画。
第5回「ティエンと進」このタイトルを見ただけで今もじーんとくる。
終盤で奈緒さん演じる鴻田がひとり泣いてたけど、「だよね〜(泣くよね〜)」と思った。
実際の鴻田の涙には違う理由があるのかもしれないけど、「ティエンと進」、2人の友情や運命を思ったらどうしようもなく泣けてきたんじゃないか。
あの終盤、たまらなかったですよね!(見た人に呼びかける)もう1つは夜ドラの「バニラな毎日」
(写真は「バニラな毎日」HPより)
正直、このドラマはほとんど見てなかった。
最近、22時半には布団に入っちゃうんですよね。
昨日もそろそろ寝ようかと思ったらドラマが始まって、すぐ目が離せなくなった。
伊藤修子さんがメインの回ということが気になったし、なんたってこのお衣装。
なぜ迷彩服…全然見てないのでなぜ迷彩服かもわかってないのですが、どうやら伊藤修子さん演じる優美は「人を殺したことがある」という。
それがどうやら母親らしく。
しかも何年もひきこもりだったという優美。
この優美が、永作さんと蓮佛さんの営む菓子教室でモンブランを作る途中で母親のことをぽつりぽつりと語る。
それが泣けて・・・「殺した」というのは、大きすぎる罪悪感ゆえの思い込みみたいなこと。
ひきこもりの自分を外に連れ出してくれたのは母。
2人で食べたケーキがとてもおいしくて、またおいしいものを求めるうちに外に出るようになる優美。
そのうち集まるような仲間ができて1人でも外出できるようになり、心配する母親を疎ましく思う。
その罪悪感たるや・・
ひきこもりの自分を外に連れ出してくれたのは母なのに。
どれだけ母親が自分を受け入れて愛してくれたか。
でも仲間といたい。母親が疎ましい。生まれて初めて仲間と「オール」をした日。
母親からの着信を無視し続けた。
帰宅すると母は死んでいた。自分に助けを求める着信だったのかもしれないのに。
苦しい、助けてと。
それを見殺しにした(と思ってる優美)
伊藤修子さんの演技にとても胸を打たれた。
その演技も、いつもの伊藤さんの特徴的な高い声じゃないし、どこか棒読みっぽい単調さ。
なのにすごい悲しくなってしまった。
すごいものを見たなぁとも思って。「母と自分と罪悪感」というワードに感受性が敏感になってるのはありますね。
でも多くの女性が母親に対してなんらかの強い罪悪感を抱いてるんじゃないのかな。
私の友達にも、母親との結びつきがとても強いように感じる人がいる。
こんなに育ててもらって、愛してもらって。
母親から飛び立つことは健全な自立であるはずなのに、いつも後ろ髪を引かれるような思いがある。
そばにいたい。愛し抜きたい。遠ざけたい。
うっかり1句になっちゃったけど、有り余るほどの愛を受け取っておきながら遠ざけたくなるような思いを抱く自分を罰する気持ちになる苦しさって、ありますよね。少し前までTVerで「すいか」が視聴できましたが、あれも小林聡美さんが過保護な親・白石加代子さんから逃げるように実家を出て、ともさかりえ・市川実日子・浅丘ルリ子の住む物件で生活を始める。
私は3話までしか見れませんでしたが(配信終了)、あの母娘の「離れたいけど結果くっつく」みたいな磁力が印象的でしたよね。すごくユーモラスに描かれてはいるんだけど。
最近やたら読んでる河合隼雄先生の本にも、母親の「飲み込もうとする愛」の病理性というか恐ろしさ、弊害みたいなことがよく書かれてますね。私のかつての上司にすごく気が利く女性がいたのですが、最初は私も「この人みたいになりたい」という憧れを抱いてたのに、だんだん「近くにいると死ぬ」というくらいの苦しさを抱くようになって。
今思うとその人の気の利かせ方というのはまるで母性で、「なんでも先回りしてやってあげる」というのを、「善かれ」と思ってやってんですよね。
そしてその人の周りの人がどんどん思考停止していって、その女性がいないと何にも判断できなくなる。
その人が登場するだけで「待ってました!」と崇める雰囲気になってしまって、私はじきに部署異動を願い出てその人のそばから離れた。
私があのとき「死ぬ」と感じたのは、「飲み込まれそう」という感覚・危機感だったんだと、今わかる。その人から発せられるものは支配とか男性的なものではなく、「愛情」という女性的で母性的なものというのも感じてた。
だからこそ「善かれ」も流れ込んできて、それを拒否したい気持ちの罪悪感も半端ない。
母性って善きものと大体思われてるけど、「そうかなぁ…」と思ってもいいと感じられたのは最近ですよね。
「愛」とかいって飲み込もうとするエネルギーは人の個性や思考をつぶしかねない。そして愛に見えるものは大体その人の不安だったりする。
こちらに向かってくるその人の不安は愛なんかじゃないと、感じてるのにそう決める自分に罪悪感を抱く。
向けられた不安でこっちの角を折られる不快さもこみあげるってなもんです。不安はほぼ呪いじゃないのか。
NHKのドラマの話からだいぶ逸れましたが、いや、NHKのドラマってめちゃえぐってくるものが増えたなぁ〜という感心に戻る。
メッセージ性もより明確になったというか。
「東京サラダボウル」の「ティエンと進」の回でも、日本で働く外国人労働者への視点の方向性を明確にした。
1つ前の「宙わたる教室」もすごかったですよね。
少し前の「燕は戻ってこない」も。
弱者をはっきり描き出す。
一方的に下に置かれて、搾取される人の物語をこれでもかと生み出して。
そんで、中村蒼さんどんだけNHK出てんだと。
「べらぼう」にも出てますね。
なんたって松田龍平さんですよ。
今までで一番ぴったりの役なんじゃないかと思う。
超無表情の中国語通訳者がハマりすぎてクラクラしますね!
奈緒さんも人柄が滲み出てるように感じる。
また東京サラダボウルのことについて書くかもしれません。 -
個性と家族のお正月
ここ何年も年末年始には「泣く」「怒る」がつきまとってます。
1年のうちで最も感情のアップダウンが激しいシーズン。
早く正月気分よ消えろ…と2日3日にウジウジ思い、4日にはつきものが落ちたようにスッキリ。
ゲッターズ飯田さんの占いによると私は銀のイルカで、銀のイルカにとって正月は運気がよくないらしい。
同じ銀のイルカの同僚は去年末、便器に掃除用具を詰まらせて、正月早々呼んだ業者から高額な請求があったそう。泣いてました(なんだかな)なぜ私が年末年始に感情的になるかというと、あのシーズンの特別感を無理やり着させられてる気分になるからかも。
大掃除とか正月の諸々準備を誰がやるかといったらもう自分しかいなくて(母はそのあたりから思考的にも引退)、まぁそれは数年前から自分の仕事として割り切っている。
でもきょうだいが集まっておせちを囲むという和やかな場に、不穏な気分を投入してしまうのも私。
準備に頑張って、さらににこやかに過ごすことも頑張れと求められる気配に1日夕方には疲れてイラつく。
1年に一度のこの行事をうまくやり過ごせないのは、ひとえに私の至らなさにあるのだと。
その反省もまた苦しい。河合隼雄さんの本を最近読み返しました。
(家族関係を考える)
この中に興味深い家族の話がありました。
ある家族の父親はマイカーを買ってから、家族(妻、娘と息子)と週末に外食に出かけることを何よりの楽しみにしていた。
あるとき、中学生の娘が万引きをした。
なぜ万引きに走ったかの言語化は難しいようだけど、週末の外食から逃げるためというのはあったらしい。
たまには友達と週末を過ごしたかったし、家族と「話が合わない」と感じ始めていた。
そんな不満を抱えながら、父親が描く「一家団欒=家族の幸せ」像に沿おうとすることに限界が来たらしい。家族が揃って楽しい生活を送る。
河合隼雄「家族関係を考える」より
このことを単純に、表層的におしすすめてゆこうとすると、家族内の成員の誰かの個性を壊してしまうことが多い。いつも楽しくしていなくてはならないので、家庭内でもヨソユキの顔を強いられることになってしまう。(中略)
人間は真に自分の個性を生かそうとするかぎり、家族を持たない方がよい、ということになってくる。といって個性を守るかのように独身を貫いてきても、あるときどうしようもなく標準的な幸せを求めたくなったりもする。
一方、家族や子どもを持つことによって不幸が倍加されることもある。
家族というものがこちらに感じさせるパラドックスをもっとはっきり認識することが必要…と河合氏はこの章をまとめる。
このあたりを読んで、私が正月に感情的になるのは、まさに「楽しさを強いられる」ことへの抵抗なのだなと思ったんですよね。家族だけじゃなく、「個性の押し込め」を強いられてるようでつらくなること、日常のあちこちにあると思う。
芸能界でも「まさかあの人が」と思われるタイプのスキャンダルが発覚したりする。
そういう人は本来の「らしさ」を押し込めて仕事しすぎてストレスが強烈に溜まったんでしょうか。
「自由」という本来の持ち分を、個性として人生のどこかで発散させなきゃならない。
そうでなきゃ死がちらつくような危機感。
押し込めが常態化してる人にとって大袈裟な感慨でもないと思う。
「家族」と聞いてイメージさせる団欒・幸福・あたたかみのパワーってすごいですよね。
私は今年の正月、兄が「みんなで仲良く」と言ったところで悲しくなってしまった。
私と姉はここ数年顔を合わせてない状態で、そのことを懸念してのことだと思う。
「仲良く」って、何を持って成立するかわかんないです。
過去のあれこれを水に流すから、うまくやりましょうやとお年賀持って訪問すれば解決というものじゃない。
私は正直、時間の経過に任せるしかないと思ってますがね。
兄としては母にいつまでもきょうだいの不和を感じさせるのは親不孝と、胸の痛む思いなのでしょう。
でも振り返れば、姉や姉の家族も集まっての正月。
一見にぎやかで楽しげだったけど、その中で私はいつも逃げ出したいような気持ちだった。
それを押し込めて「楽しそうに」過ごすことが実はつらくて、押し込めきれないこともあったんですよね。
「楽しそうに」という表情をいくらか曇らせて淡々と過ごせそうなものですが、「なんかつまんなさそう」って姉に指摘されるのを恐れていた。存分にはしゃげたのも姪や甥が小さいうちだけ。
甥も高校生になるとほとんどしゃべらなくなり、きっと姉もそんな息子の感情を動かす思惑もあってお正月に連れてくるんだと思う。
私と姉でなんとか甥を笑わせようとする。
今思うと、「絵に描いたような家族団欒の正月」を押し付けられることに私はずっと怒ってた。
「楽しそう」以外の態度を許されないから。
何か吐露しようものなら、「正月なのに」と非難される。
年末年始が持つ特別パワーそのものを、いつしか恨めしく思うようになりましたよね・・私は昔っから家族で出かけて全身ではしゃぐ、みたいなことが苦手で、「楽しくないの?」と顔色うかがわれるのも嫌だった。
自分なりに楽しいと表現することもあったけど、気の乗らないことに乗せられることにいちいち激怒してた記憶。
「ほら、楽しかったでしょ。行ってよかったでしょ」と言われるのも特に嫌で、その嫌さ加減が年取ってもマイルドになってないことに改めて驚きましたね。
「自分の思い・気持ち」にすごくこだわりがあって、それを押し込められることに激しく抵抗する。
自分はそういう人間なんだなと。
「1人だけ楽しそうじゃない」と見られることを長らく反省してきましたが、楽しさや平和感を押し付ける方もいいかげん、己を振り返ってほしい。
自分の何かを満足させるために、人にすがっているんじゃないのかとか。
ちなみに兄の月は蟹(太陽は獅子)、私の月は獅子(太陽は蟹)。
やっぱ月が蟹だと家族団欒を求めるのかな。
いさかいに胸を痛める月蟹を思うと申し訳ない気もするけど、私は家族よりも「自分の楽しさ」がやっぱ大事になってしまう。
私は太陽蟹なので「家族のために」という体裁はちゃんと整えようとするんだけど、「ここまで頑張ったからあとは自室で過ごさせてほしい」という気持ちになっちゃいますね。
母は月蠍、姉は月山羊。
男性星座月の私だけ異質な存在になるのも致し方ないのかも。
姪は月天秤、甥は月射手。
この2人が無邪気なうちは楽しかったというのは本当そうだった。
-
べらぼう第1話感想
大河ドラマを楽しみにできる生活って、安定的でとても良い。
と感じた2024年。
「光る君へ」を毎週楽しみに待つという状態が自分にとってすごく健全でした。「べらぼう」も第1話ワクワクした!
脚本が森下佳子さんというのがいいですよね。
「JIN」やNHK「大奥」の森下さんですから、江戸時代を安心して楽しめそう。
森下さんが手がけた「直虎」も好きでした。
早くもSNSでは、大河初じゃないかというあのグロシーン(柴咲コウが高橋一生を槍で処刑)を思うと油断できないという恐怖が湧いてるようで。(そのときの感想→「高橋一生さんの余韻」)
ってか、その片鱗が1話、すでにあったけど。
亡くなった遊女が裸でうちすてられる図・・大河で初めてインティマシーコーディネーターが入ったらしいですが、そういうことだったんですねと。
個人的には遊女役・小芝風花さんが早くもそういうシーン?とか、宮沢氷魚と女の「いいではないか」「いけません…」という会話にいちいちザワついてましたが、どちらも至って健全シーンだった。
宮沢氷魚が屋敷の余った弁当を庶民の女に与えて、遠慮しまくる女の図。
いやぁ、安心してる自分にウケた。そんな人もまた多かったみたい。
ドラマ後のSNSチェックも楽しかった。なんたって横浜流星さんですね。
やっぱ顔が美しい。
ずっと見てられる。
役としては、吉原生まれで親に捨てられ、拾われた先で幼い頃から働きまくって吉原じゅうをいつも駆け巡ってるようなからっとした男。
わりと意外だったけど、横浜さんって恋愛ものやDV役より、明るい役もまたいいのですね。
いかにも江戸っ子で口は悪いけど、根に持たない。アイデア好き。
やってやろう精神が輝く。横浜さんって太陽は乙女座だけど、金星火星が獅子なんですよね。
私自身の月が獅子だからか、火星座っぽいフェアネス精神が見てて気持ちいい。
ってか、べらぼうは火星座出演者がすごく多いです。牡羊
小芝風花、高橋克実、六平直政獅子
愛希れいか、冨永愛射手
中村隼人、安田顕、伊藤淳史、里見浩太朗、尾美としのり、井之脇海ちなみに脚本の森下佳子さんは太陽水瓶ですが、超射手座マジョリティーの方。
月は射手か山羊か微妙。
主人公の正義感の強さと作品のメジャー度を思うと山羊かもしれないです。
どのドラマも女性が本当にきっぷがいいというか、威勢がいいですよね。
花魁が「あちき」と言うときの表情が印象的に目に浮かぶ。
私は「JIN」の中谷美紀さんがやっぱ今も鮮烈に残ってるかなぁ。
小芝風花さんもすんごい美しいですよね。私の住んでるところが吉原徒歩圏内で、一度吉原のエリアに足を踏み入れたとき、なんともいえない水っぽい空気感にすごく取り憑かれた気持ちになりました。
特別風俗街を散策してたわけじゃなく、住宅街だったし昼だったけど、明らかにかつて水の地域だったところ。
つまり高地ではなく低地だった気配になぜか惹かれてしまった。
住んでみようかとも思ったけど、あそこは最寄り駅がなく本当に隔離されたような場所で、通勤には不便かなと断念。ありし日の花魁を思わせる鮮やかな鯉。
吉原弁財天に行ったのはもう4年前。
あのとき映画「吉原炎上」を見たあとすごく行きたくなったんですよね。それでドラマの感想。
「ワクワクする」
結果、これしかないですが、配役がいいなぁぁと感じ入りました。
渡辺謙さんとか地上波で見なさすぎて、その演技とかどうだったか忘れていましたが、さすがだなぁと思った。
貫禄がありつつ、悪そうでありつつ、ちらりと見えるフェアネス。
視点をすっかり変えられてしまった重三郎の表情も、横浜さん素敵だった。
まつげくるんと上がっちゃって(元かららしいけど)。安田顕さんや水野美紀さん、かたせ梨乃さん、あとどんな方が出てくるだろうというワクワク。
綾瀬はるかがナビゲーターもする狐役とは、まぁぁ豪華ですね。
「亡くなった花魁の総体」というSNSの書き込みを見て、ゾワッとなった。
だとしたらあの珍奇なお化粧・お衣装にも納得です。まぁ、まだ第1話。これからですね。
今後、福原遥さんや橋本愛さんも出演予定。
蔦屋重三郎の女性関係は謎が多そうだけど、妻はいたらしい。
横浜さん、何やらめちゃ忙しそうだから(重三郎が)
1話じゃ全然恋愛っぽさないけど、それならそれもいい気がする。
朝顔姐さんを思う気持ちや弔いの涙が、今後の感情のベースになっていくのかな。
だったらいいなと、ちょっと思った。
ちなみに蔦屋重三郎は水瓶座(グレゴリオ暦で)。
このあたりも今後、ドラマ展開に沿って見てみたいです。 -
正月・風星座ドラマ
新春ドラマ「スロウトレイン」見ました。
(写真はスロウトレインHPより)
3人きょうだいの物語。
両親を交通事故で亡くしている。
脚本は野木亜紀子さんです。このきょうだい役の3人とも風星座なんですよね。
長女・松たか子 双子座
次女・多部未華子 水瓶座
弟・松坂桃李 天秤座編集者である松たか子がかつて担当していた人気作家役が星野源・水瓶座。
すんごい風星座っぽい物語だなぁと思いました。
「言葉」がポンポン出てきて、「?」と感じる持論にも「一理ある」と思わせる説得力。
そしてファッショナブル。さらっとしてる。
鎌倉が舞台の渋谷家3きょうだいの物語。
リリー・フランキーが重鎮作家役だったり、松本穂香が星野源の新しい担当編集者だったり。
多部ちゃんの彼氏役が韓国人俳優で釜山ロケがあったりと、豪華なドラマでしたね。「孤独」と「死への不安(明日どうなるかわからない)」というあたりがテーマかなと感じたのですが、割とコメディ調でみんなかっこよくて、あんまり感動とかそういう感じはなかったです(私はね)
とはいえ一番「おぉっ!」と思ったのは、星野源が恋人役の松坂桃李に別れ話を告げたところ。
星野源:毎日一緒にいられたらいいのにと言い出したのは君だよ。
軽い気持ちで言ったんだよね、君は。
その気もないのに。うわ!天秤!と思ったんですよね。
天秤座(松坂桃李)がいかにも言いそうだなと。
「一緒にいられたらいいのに」って。
そのくせ、「一緒に暮らそう」と言われると渋る。潮(松坂桃李)は突然の別れ話に抵抗こそ見せてたけど、「毎日一緒にいられたら…」と言ったのは本気というより、ムードの延長っぽい。
「真に受けた自分」を責める星野源。
そうなんだよ…天秤座の言葉って人を喜ばせといて、なぜか落ち込ませる。
「その気持ちに嘘はない」とか言うけども、幸福への濃厚な誘いをかわすとこがある。星野源:僕は常々、”人といる孤独”が辛いと考えている、何よりも。
だったら1人でいるほうがましだよ。このセリフもまた、いかにも水瓶っぽいと思った。
群れるぐらいならいつだって1人を選ぶ。
水瓶座って孤独を好んでいるように見えるけど、「平均とかがわからない」のあたりの孤独かなというのは薄々感じる。
「分かり合えること」が少ないから、人と距離を取る。
そんな人が愛を知ったとき、ものすごく強固な何かが内側に形成される。
そんな人なんじゃないかなと。
ま、星座と脚本にはなんの関係もないとは思いますが、それなりに役者に適したセリフを書いてるはずで、そういう「合ってる!」と感じるときって個人的にめちゃ楽しいんですよね…天秤座も本当にウザがってるわけじゃなく、むしろウザがる人ではないように最近は思ってます。
本当に心から愛を与え合いたいと思ってるピースフルな人なんでしょうけどね。多部ちゃんも韓国人の恋人からのプロポーズを断る。
松坂桃李も多部ちゃんも、「独身の姉」のことが気にかかっているから。
両親を交通事故で亡くしてからは、姉の松たか子が親代わりとなって家族を支えてくれた。
恋人もいたのに「それどころじゃない」と、当時のプロポーズを断ったことを弟も妹も知っている。でも実は松さん、恋人(井浦新)とのいさかいが別れの原因らしく。
「家族(きょうだい)を支えるため」というのは、ちょっとそのほうがまともな理由っぽいからと。
そのあたりをきょうだい3人、本音ぶつけて話し合ったあと、多部未華子も松坂桃李も、それぞれの恋人との幸福へ歩を進める。
そんな物語でした。
松さんのセリフ量、めちゃ多かったです。
顔芸とか間の取り方も、双子座っぽいなぁと感じた。
でも松さんは恋愛シーンを演じてこそ、独特の色気をドバッと魅せてくれる方。
昨日はストーリー上、誰ともくっつかない展開でよかったと思うけど、コミカルで終わっちゃうのは少しもったいないと感じた。
でも最後の笑顔のシーン、さすがだなぁと思いました。
番宣で松さんは、「家族がいる人にもひとりの人にも」薦めたいドラマ、というようなことを言っていた。
それは松さんの言葉というより、番組のコンセプトだろうとは思うけど。
「誰もとりこぼさない」というメッセージって今、世の中にすごく蔓延してるように思うけど、そんなメッセージなんて信用できないところがある。
そうやって近づかれて、どれほどがっかりしたことかということをいくらか体験してきた。
というか、「ひとりで生きてる人も寂しくないように」という矢印をこっちに向けられるのが嫌というか、そうされた途端に寂しさに気づいちゃうような。
寂しいなら寂しいで、孤独でいいじゃないですかね。
うんと孤独を体験してこそ育まれるものがあって、それを知る者同士が出会う偶然がまたこの先もあるように思う。
ドラマも、心に沁み込んでくるような作品と時々出会う幸福ってのがありますね。
「光る君へ」のまひろは時空が違うのに不思議とシンクロを感じられた。
そういうドラマに、じーんとして来週も楽しみにする。
そういうとき孤独もまぎれるんですよね。
正月は単発ものが多いし、大抵は年末ですべてが途絶えてしまう。
そういう意味でも年末年始ってつらい。
でもドラマ見て、久々星座ゴコロが湧いたのは楽しかったです。 -
2024年も終わりに近づき
去年の1月1日、能登で地震が起きてから1年が経とうとしている。
関東でも揺れたし、異様な頻度の緊急地震速報。
あれから365日を過ごしてきたなんて、不思議です。
すごく早く感じる。年末年始はメンタル不安定なことが多いです。
家族で顔を合わせること。
何かとやるべきことが多くて不安になること。
なぜか1年の決着をつけようと自分を追い込むこと。
などなど、何やってんだか。今年も例外じゃない。
今日1日用事がないのをいいことに、布団でごろごろしてたら頭痛。
元気がないから寝てるのに、寝すぎるとさらに体調が悪くなる。
それでも掃除して、あちこち磨いて。
昨日は実家のあちこち整えた。
やるべきことはやっている。
なのに、気持ちは沈んでいく。
橋本環奈のプロフェッショナルを見て、少しだけ元気になった。
自分もああいうふうに心を上昇気流乗せっぱなしにできたんじゃないかと、過去を振り返ってみる。
できた気がしてくる。
が、30代後半と40代後半のあのがっくり感は、人生で予想もしてない沈み方で。
橋本環奈にもやがてそんな沈み期が訪れるのだろうか。さっき、叔父から電話があった。
私の母の弟。
母と電話したら、あまりの母の快活ぶりに驚いて嬉しくなって、私にも電話をくれたようだった。
叔父も80歳のわりに60代みたいな声で相当元気なんだけど、88歳の母のポジティブさに度肝を抜かれたようだった。
確かに母はここ数年で明るさが上向いている。
物忘れもできないことも確実に増えてるんだけど、笑い声と食欲が上向き。
そんなことってあるんだな。
その快活さに私の献身が関係してるんだとしたら、ありがたいし幸福と思う。
今年はそんなことを何度も思った1年だった。母は5月に初めて30度に到達した日に熱中症で救急搬送された。
あのときすごく動揺して、近所の人にも心配されて、気が張った数週間を過ごして。
それは2024年最大の出来事だったけど、あの出来事を機に「母の環境をもっと良くしていけたら」という「チーム母」ともいうべき私と兄とケアマネさんとヘルパーさんのタッグが強まって、結果すごく良い環境がもたらされた。
母は一人暮らししてるし、私も週1回の帰宅だし。
今までこの状態を「介護」と言うのは恐れ多い気がしてたけど、2024年は「介護にあたっている」という自覚をちゃんと持つことで、私自身の意識も大きく変わりました。
2022〜2023年はもっとすごくメンタルが不安定で、「介護にあたる自分」の像がなかなか描けず苦しかった。
自分の人生の半分以上が介護で塗りつぶされる気がして、怖かったのもある。
母の生活の多くを私の脳内でコーディネートしなくてはならない、そういう日が迫ることを恐れていた。
2024年は母の救急搬送を境に私のメンタリティーも体力も向上した年でした。
そう、私もちょっと健康になったんですよね。
ってか2023年ごろのすべての落ち込みはなんだったんだろう。
ああ、これが更年期か…と思う体力の低下と苦しさがあった去年だったけど、更年期っぽさは消えたかも?軽くはなりました。
思うに、コロナ禍で体力が激しく低下してたんでしょうね。
2024年は2駅以上歩くとか、そういうのも頑張りました。いくらか元気になった私は秋にnoteを再開したりしましたが、ここのブログと違って「書くこと」に異様に神経を使うようになり、今またストップしています。
自分の「好きなこと」を思い返したとき、どれもこれも人様にアピールできるようなものなどなく、どれも1人でひっそりと楽しむようなことだった。
その「1人」の時間に孤独を思うこともなく、人から見れば子どもみたいな時間だったとしても、確かに充実していた。
その孤独を、偶然誰かと分かち合えることがあって、友達みたいになって。
お互いどれだけ孤独な時間を過ごしてきたか、その少しの見せ合いっこがよかった。
見せ合わなければ孤独だとも気づかなかった。
でもこっそり打ち明けて、またすぐしまう。
また1人きりで時間をつぶすことを楽しむ。
それでよかったのに。
下手に交流の場を持つと、自分のダメさが急に感じられたりする。
そして、自分を平均的なキャラクターに無理やり作り替えようとする。
そんなことをしてたらメンタルの危機になりかけました。ゆめぼしのこのブログを一番熱く更新していたとき、ある面から見たら恥ずかしいようなことだったかもしれないけど、ある面から見たら相当充実していた。
でも充実のさなかに一瞬でも「恥」を感じたら、あの熱さは取り戻せない(気がして)
ここ数年はそんな恥を抱えすぎたかもです。
来年いくらかでも熱さを取り戻せたらと思う。
やっぱ橋本環奈からヒント何か得たのか?自分・・
それにしてもマブダチ・山本舞香の美しさには息を呑みましたね。
ちょっと(かなり)好きになったかも。
「舐められたくないじゃないっすか」みたいなこと言ってた(かっこよかった)20代の女子に憧れを抱く自分。
それめっちゃいいじゃんと、高校時代の友人が最近言ってくれた。
たった1人だけの言葉で何かを取り戻せるって、今もあるんだなと。
だから来年は、「取り戻す」みたいなことを掲げたいですね。
Tverで、あの伝説の「すいか」やってんですよね!
私は見逃してしまってて、でも見た人みんな「おもしろかった」「名作」と言う。
私もまだ2話しか見てないけど、おもしろい!!
こういうわくわくを少しずつ取り戻していきたいです。
いつも読んでくださる方、本当にありがとうございます!!
-
性と欲を思ったゆうべ
なんでクリスマスに源田の不倫のニュースを見なきゃいけないんだ。
源田のことそんな見てたわけじゃないのに、「源田も!?」とか思っちゃったよ。
妻が元乃木坂と。
SNSに流れてくる情報見てたら、「やりそうじゃないか」とも思った。
正直、不倫報道でいちいちがっかりさせられるのに疲れている。
文春はどういう目的でこのニュースを報じたんだろう。
「不倫する人を真に断罪するため」に片っ端から情報をアップしているのか。
それとも「関心持つ人が多そうだから収益になる」と見込んだのか。
源田を引きずり下ろしたかった?(なんのため?)
もしくは、まさかのまさかで「みんなやってるだろう」という許容ムーブメントを地味に企んでの不倫情報乱発なのだろうか。
目的を知りたい・目的を。
情報にただ踊らされるというのは、もう疲れた。
一方で、深刻そうな性加害疑惑報道も目にした。
「欲」ってなんなのだ。
願望通り遂行したい「欲」ってあれこれあるけども。
食欲・睡眠欲etc.
性欲ってそんななのか?特に強者の欲ってどんなことになってるのでしょう。
人の境界線をぶち破ってもいいと思ってるのか。
それが許されると思ってる人たちがこの世に存在して、「人気者」として仕事をこなしたりする。怖すぎる。
価値観がアップデートできてない人特有の変態性なのか支配性なのか、本当は依存症という病気にくくられるんじゃないのか。
だとしても。もうみんな、やりたすぎだろうと思う。
性欲が下降の一途を辿っている自分なので、つくづくそう思う。
昭和・平成って「性行為至上主義」みたいに煽られてた時代だった。
ドラマも映画も庶民の恋愛シーンでも。
その余波というか影響が今もかなり残っている。
性のあたりで極めた人になりたすぎる業界もあるんだろうな。
芸能界もそうだし、スポーツ界にも一部偏見の目を向けてしまう。
日本のスキャンダラスな著名人や選手はみな、顔が欲でパンパンになってるように見える。
週刊誌も結局、性欲でパンパンなんじゃないですかね。
ヤってない人を暗に侮蔑する雰囲気を作っといて、結構ヤってる人をたたく土壌を提供する。
興味あるのはいつだって性の過剰さ。
クリスマスが過剰に煽られるのにも、性のたくらみを感じてる。
聖夜だけに(ごめんなさい)
そういう煽りのせいかはわからないけど、「性でぐいぐいしてもいい」みたいな勘違いを抱く男性がまだ多いらしい。
マッチングアプリを使ってみようかと随分前に思ったことあったけど、「初めて会った人から車内で迫られた」「カラオケで膝枕された」「大体ヤリモクとか」
「そういう怖いこと乗り越えて今の夫に出会えました」とか聞いても、いやいやいや。乗り越えるかよ!と思って使用はやめた。自分に向いてない。
「よく知らない男性」ってそれなりに恐怖ですよ。
しかもアプリ使って女性と会いたいという普通の願望を抱いた人の「初対面の相手との距離感」が「性のあたりでぐいぐい気味なこともある」、という可能性を受け入れられない。
関係をそれなりに築いた人にはそれなりの安心感がある。
同僚とか、相手の勤め先を知るくらいの関係。
というのも、「社会的な立場を把握している」という状態は身のためでもあると思う。
100%オープンで男性といきなり向き合うってのはやっぱり怖いとこがあって。
恐怖が前提にあるから、浮気とかにフットワーク軽くなれない。
「性」にまつわることってなんだかんだ大事で、どういう心持ちであれば傷つかなくて済むのかって、わりといつも考えている。
結局「自分」なんだよという自己責任論で対処するべき領域なのか。
だとしたら、神経使うことが多すぎる。
安心して愛情を育んでいきたいだけなんですよね。
-
ミッションクリア体質(気を利かせるということ)
前回の記事で、男性が時代のダブルバインド(=矛盾した2つのメッセージが発せられること)で混乱してるのではないかということ書いたけど、「結局どう生きるべきなの?」という矛盾を抱えてるのは女性もまたそうだと思った。
社会進出していこう・生活をちゃんとしていこう、さらに愛する人を守ろう。
どれも頑張るしかないと感じるから、スーパーな底力を絞り出す、そして疲弊、みたいな。「気を利かせる」ということをすっごく叩き込まれました。
それは新入社員のころ。
でも思い返せば、大学1年のときから「気が利かないバイトの子」とずっと年配の女性に言われてましたね。
おばちゃんの態度ってどれもすんごく意地悪だったからか、大学生の私は「自分はそんな悪くない」と思えて反発心丸出しにしてた。就職するとそれは通用しない。
「こんなに気が利かない新人は初めて」「お母さんの顔が見てみたい」などなど、明らかなモラハラを浴びせられて。
「そのおかげで」、なんて言うのも癪だけど、1年も経てば「気を利かせること」がわかってきて、次第に「気づくこと」がミッションみたいになる。
「こんなとこまで気づいた自分」に誇りを持てたり、「すごーい」なんて言われてニヤついたり。
前回の記事で、男性がこぼした茶をさっと拭くのが喜びとか書いたけど、ミッション拾った快感なんだとも思う。
どこにいてもミッションセンサーを働かす。
くつろげない。
就職して2年目ごろ、学生時代の友人に、「すごく気が利くようになったよね。だって大学の時は…」と言われた。
途中で言葉を飲み込んだのも気になったし、「利くようになった」という言い回しも引っかかった。
「なった」ということは、気が利かないとずっと思われてたということか。
しかも大学時代から。
私がおばちゃんに反発して向上心など持ちようもなかったあのころ、友人からすでにジャッジされていた。
それはなかなかショックでした。彼女は大学時代、体育会系の部活だったんですよね。
だから学生時代から「気を利かせること」が叩き込まれてたんだと思う。
私の鈍感さが気になるほどに。25歳ごろ、それまでの内勤から外勤へ異動に。
建設業だったので、外勤というのはあのプレハブの現場みたいなとこでの事務。
男性9割。おじさん8割。全員年上。
いや〜楽だった。
過剰な気遣いなどしなくても、「よく気がつくねぇ」と感心される。
女性は私1人なので、ルールもわりと自由に決められる。
「私はお茶汲みとか、しませんので」と暗に表明しても怒る人はいない。
「気を利かせる」の熱量を半分に下げても、誰も何も言わない。
みんな自分のやるべきことをやっていて、「それでいい」という世界。
気を利かせなくて怒るのは、女性なんだろうか?***************************
この時期になると「名もなき家事」の話題で熱くもなりますが、「気がつくほうがやることになる」という、その気づくほうのモヤモヤが一向に晴れないまま話題は終わる。
どうしてもよく気づく人というのはいて、ミッションクリア体質になってんだと思う。
気遣いを叩き込まれたんでしょうよ。
ある意味トラウマレベルに。
そんな女性・社会人は多いんじゃないか。
だって、気が利かない=ダメな女という烙印が押されるから。
誰が押すのか?
これがはっきりしないんだけど、なんでしょうね、「その烙印だけは押されたくない」というあの恐怖。
ダメゾンビにつかまってダメ沼に沈められないよう、とにかくミッションを高スピードでクリアしていく。
よく女はマルチタスクだとか言われるけど、「あれこれ気づいて処理しなきゃ!」にやたら駆り立てられてるだけじゃないですかね。
一定の時間内に終えないと「気が利かない」「できない」と思われかねないから。気が利かないと何が怖いかって・・・
ひとつは「だから結婚できなかったんだ」と思われることなのかな。
いつもこういうとこに帰結するのもいいかげん嫌なんだけどさ。
人として・女として、どう振る舞えば「ダメ」と見做されなくなるか、そのライン探りにアンテナを張りすぎたかもしれない。
-
生活と対等(誰かと住むという想像から)
「レジ袋の大ください」
私はそう言う率が高い。底が平らな弁当用バッグを持ってないこともあるし、惣菜もくるんだビニールの端から汁がこぼれてた率高い。
そしてエコバッグに汚れが付着。
洗濯しても落ちなかったりする。
バッグだってそんな安くない。
100円均一のでいいじゃんという声もあるだろうけど、だったらレジ袋を買う。
家に帰ったら同居人がいたとして。
「なんでエコバッグ使わないの!」「レジ袋買うかね!」
責められたら嫌だなぁ〜という想像をした。
なぜかそのシルエットは女性だった。女性友人のエコバッグ率は高い。
そりゃそうだろうとは思う。
お金もったいないし、環境のことあるし。
でも私は自分が買った袋をゴミ袋として使っている。
この世に売られた袋があるかぎり、買う自分が環境汚染の主というわけじゃないはずで。
ってか、なぜこんなに言い訳してるのか。
私の周りには「ちゃんとした女性」が多くいて、あの子に眉ひそめられちゃうかな…なんてことを時々思うから。ただ、男性が同居人として。
その人がレジ袋ぼんぼん使う人だったら、「ちょっとさぁ」くらい言いそうな気がする。
「ゴミ袋として使ってるよ」と言われても、なぜか言い訳に聞こえてイラつく想像までする。
女って「言いたくなる」性分なのかな。
どっちかがきちんとしてて、ルーズタイプが怒られる。
生活ってそういうもの、という固定観念が奥底にしみついてるのか。
母親の真似をしてるのか。
「そういうもの」なのか。「シーツを洗う頻度」についての会話はいつも気まずい。
「週1洗わないと気持ち悪くない?」と既婚女性が言う。
私は数週間でも気持ち悪くない(あえて数週間とボカす)。
私もそれなりに「生活ちゃんとしてる人」と思ってるのだけど、友人宅に遊びに行くと、自分がルーズ人間のように感じられてしまう。
みんな水道周りとか黒ずんでないし、トイレのタオルまでふかふかしてる。
私が来る前にすごい掃除をした、という雰囲気もない。
「ちゃんとしてる」の基準がきっとはるかに高いんだ。
帰宅して、風呂場ドアの隙間汚れを慌てて拭く私。
自分は結構やれてる派と思うのに、女性と同居したら「いい加減なタイプ」と思われるのだろう。女性同士というのは、一見相手を全肯定する温かな関係を育める。
でも旅行先でピリピリするのは、生活のギャップを見るからでしょうね。
部屋があんなにきれいな友人が、バッグから全てを出して自分の周りに置いて途方に暮れてたりする。
そして風呂が長い。化粧が長い。
女子だなーと思う。
私はこの「女子だなー」という感じが実はちょっと苦手。
時々ならかわいいけど、生活となるとストレスになりそう。
男性のルーズさは許せる(程度はあるけど)。
男性が宿泊先の部屋で途方に暮れてたり、風呂が長いということはない。
「さ、部屋出るか」と立ち上がったとき、男性がテーブルにこぼしたお茶をさっと拭いたりする自分に喜びすら覚える。
それを彼に見られてなくても、そういうことをやりたい自分。
これ、女性のこぼしたお茶を私が拭くってことはできない。
いや、湯呑みが倒れてこぼれたのなら拭くけど、ちょっとした水気を拭くってのは嫌味じゃないですかね。
私は「対等」をいつだって交際関係の理想に掲げてきた。
男性と交際を深めると、なんだかんだ男性の運命性を優先しながら生きていくことに、どこか怯えていた。
女性友人との関係性はおおむね対等。
ただ、それも「距離保ってるから」という部分は大いにあるわけです。
私は「近しくて対等」という関係を誰かと築きたいと望むのに、それは無理なんじゃないかと最近すごく思ってて。******************************
女性との関係に亀裂が入るのって、恋愛の破綻より怖いかも。
そんで、相手の上に立とうとすると大体関係はおかしくなる。
それを互いによくわかっているので「対等であること」、そのバランス調整に細心の注意を払う。
相手女性のことを「だらしない・ダメだな」と思うより、自分が「ダメ」の側にいたほうがまし、そんなことを意識はよくわかってる気がしますよね。
「下」に耐えられるのもいっときだけど。男性と関係が近しくなると、全体的に男性が「上」みたいになるんだとして。
細々とした場面では「上に立たせてくれる」と感じる。
それが私は心地よい。
「しょうがねぇなぁ、男ってのは」というベースを心に抱かせてくれる存在はありがたい。
そんでこっそり「頼もし〜」と安心する(オープンにしてけよという話だけど)
兄がいるからこういう感受性なのかもしれない。
もう10年以上も前になるドラマ版「モテキ」が好きで見てましたが、第2話のタイトルが「深夜高速〜上に乗るか 下に寝るか〜」
夜の主導権争い描写が見事で、満島ひかりのかわいらしさが世に放たれた神回と思ってますがね、男女ってああいうことしょっちゅうやっている。
「マウント取り合い」が許し合える関係を、実は私は望んでたのかも。
対等を理想に掲げといて、その実、「私の権利が通ること」を求める。
とか言ってもね。
男性相手にマウント取るっていうのは、「それでやっと対等」と感じられるから。
私は男性が恋愛対象。
何が好きって男性とつながると社会につながる感覚をダイレクトに味わえるからかも。
時に翼を授かったように自分の役割が明確になることもあり、「しょうがないわね」でやってあげてる自分はなかなか悪くない。
とはいえ、「やれよ…」と思うこともたくさんある。
男としてはもしかしたら、最近の世間からの圧にダブルバインド混乱状態なのかなと思ったりもして。
「気がつく」ひとつ取っても、「ここまでは気づかなかった」ということは無数にある。
そこまでやらなきゃなの?と聞けば、「そうだよ!」と気づいた側は思わず言っちゃうだろうけど、正直「こんな隅々まで気がつく自分」でもありたい。私はね。
さらなる理想を言えば、「隅々まで気がつく女性」に気づいてほしい。
そんで、「フォローしてもらってんだな…」と噛み締めてほしいんだな。
そういう願望まで汲み取ってもらう期待は期待しすぎとわかるし、でも理想はやっぱ汲み取ってほしかったり、やってほしかったりだし。
ただ現実として、自分のことだけじゃなく同居人の動線まで想像してくださいよという願いは切実であって。
女性相手だと「隅々まで気がつく存在」とかになりたくないんですよ。
そんな嫌味な人になりたくない。
相手をそういう存在にするのも気が引ける。
私はこの先、女性と住むという未来もあるかもなぁと思わなくもなかったけど、やっぱハードル高そう。
上に立たないことを心がけつつ支え合うって難しいなぁと。
「年老いた親」だったらまだしもで。
これも立場がしょっちゅう逆転しますからね。「親」と、世話する娘とで。
「対等」っていう理想、そんなよくもないのかな?という気づき。
わかんないですけどね。
私の未成熟な部分が抵抗してるだけかもしれない。女が尽くすから男は鈍感ルーズでよいとか、そういう話ではないです。
ただ、このへんの煮詰まりをもっとクリアにしたい。
ダブルバインド状態がもっとクリアにされて、いい意味での対等さが生活に自然に浸透していったらいいと思う。
-
M-1週の憂鬱
今年こそ見るのやめようと毎年思ってる気がする。
M-1。
見ると楽しいのに、ストレスもかなり感じる。
あんなに神経使う番組もない。
ミルクボーイ、ぺこぱ。
誰だよ…と思ってたのに、笑った。
あのときTVを見つめる私の目は相当輝いてたと思う。
2021年、ほとんど知らない…という中での錦鯉の輝き。
2022年、上沼さんいないんじゃ今年こそ見ないかなと思ってたのに、さや香をおさえたウエストランドにスカッとした。
2023年、令和ロマンは正直、わからなかった。え、わからないですか?と言われることと思う。
「令和ロマンよかったよねー」という声はよく聞かれた。
2024年は「令和ロマンわからない人ってお笑いわかってない人だよね」というムードをあちこちで感じた。
「YouTube見たら、おもしろさわかると思うよ」
出た!YouTube。
私はYouTubeを見ない。
さや香の見せ算がわからないと言ったときも、「あっ、わからないかー」みたいな反応があった。
カベポスター、モグライダー、真空ジェシカ、ヤーレンズ、このあたりの話題をふいに出されておもしろの同意を求められたこの1、2年はなかなか苦しかった。
誰が誰かわからない。
もう「M-1見てない人」にいっそなろうかと。なりたいのだけど。
とはいえモグライダーの芝って人は、友近とのサスペンスドラマ風YouTubeを見たのでわかる。
YT見てんじゃんという話だけど。
真空ジェシカも、ヒゲ姿がぼやっと記憶にある。
カベポスターも、永見って人はチュート徳井に似てた人だった気がする。
なんだかんだちょっとわかるけど、ネタを覚えてない。
それもこれも、「タモリ倶楽部」がなくなったからと思う。
あの番組は私にとって芸人を知るのにとてもよいとこでした。
和牛をなぜか毛嫌いしてるタモさんが印象的だった。
そう、和牛やかまいたちのおもしろさがわかる人がお笑いわかってる人、みたいな時期にも「M-1から離れようかな」と思った。昨今の笑いについていけてない。
これは認めます。
それ以外にM-1が苦手なのは、会場笑い声の女子率の高さ。
なんでも笑うんだからさ、女子は(観覧女子は)。
笑わせるのにそんなに人生懸けなくてよくないか?とひねくれた気持ちになる。
あと年々クローズアップされる、漫才後の審査員とのトーク。
スイッチ切れた芸人の緊張に包まれた真顔こそ味わい深かったのですが、今じゃ漫才後にさらにギアが上がってて、こっちももたない。
さっさと点数出してほしい。番組、あんなにドラマチックでしたかね。
「かっこいい男たち」みたいな演出が結構苦手。
「俺たち頂点」みたいな。「東京進出」みたいな。
そしてちょっとM-1批評という、この私の行動こそ「最もイタいこと」として全世界から袋だたきにあいそうなムードがとても怖い。
属性としても女であり中年であり、「黙ってろババァ」という弾圧。
そんな空気の中で上沼さんも邦ちゃんも去っていった。
海原ともこはすごく縮こまっていた。
それをまたおもしろく見せられるのがすごいなと思って私は見てたけど、ちょっとトガったこと言うとやっぱ袋だたきにあいかねない恐怖を、ともこさんも抱いてるんじゃないですかね(勝手な自分の投影)何年か前の自分こそ、「M-1わかってる自分」みたいな視聴者だった。
そのときはバラエティーもよく見てたから、お笑い現役者を気取っていた。
今は引退ですわ・・
水曜日のダウンタウン…
千鳥…?
アメトークってまだやってんだっけ…
見る気がどうしても起きない。
R-1も熱心に見てたけど、ここ数年はエンディングのクリーピーナッツの音楽にすべて持ってかれてる気がする。
優勝者の声が聞こえない。それでも最近の芸人って優しげになったみたいですね。
下ネタとか茶化しをあまりやらないと。
それでちゃんと面白いらしというのも何かで知った。
芸人の本は時々読みます。
ハライチ岩井とか、ふかわりょうとか・・お笑いについて語る…ってことに、やけに心細さを感じる。
前、こんなんじゃなかった。
自信がないくせに、感じる憂いや違和感を表明しときたいこの気持ちってなんだろう。
M-1わかってる人があふれる今週末以降を思うとつらいなぁという気持ち。
でもここで乗り切れないと、正月何見てもつまらないだろう。
「あっ、決勝に行けなかったけどおもしろかったコンビだ!」とか思えない正月を思うと心細い。
「全然M-1見てないよ」って人からしたら、くだらない悩みだと思う。
もう見てないんだよね、の1年目になるかならないか。
切りたいんだけど見たい。
じゃあ見ろよという話で最初に戻るんだけど、楽しさと同じくらい謎に大きなストレスがあるよね、って話ですがね。
この時期本当に憂鬱なのは、M-1見てない人が「見た?」と聞かれることが増えたり、やたらM-1談義されるMハラにあう方なのでしょう(自分こそがMハラ人間だった)
-
恋というパワー
前回は女子に好意を抱く話について書きましたが、男性に恋したときのパワーは、それと比較にならないと思った。
女性が月としたら男性は太陽。
男性はエナジー。
そのぐらい違う。
だから私は異性愛者だなと思う。
中3の卒業式で初めて、恋しくて泣きました。
好きな男子からボタンをもらいに行ったのに一個もなかった。
そしたら生徒手帳くれたんですよね。
その優しさと、もうお別れということが悲しくて、彼の前で泣いてしまった。
隣のクラスの男子でした。
休み時間、うちのクラスのドア開けて変顔をさらす。
なかなかイタいウケ狙いだけど、すごく好きになった。話したことはない。
太陽みたいなスマイルの彼。
バレンタインデーに勇気出してチョコ渡したら、ホワイトデーに私の座席にお返しを置いてくれた。
ほんと優しいんですよ。
今でもホワイトデーのお返しの箱と生徒手帳が実家にある。
捨てたっていいのに、何で捨てないのか自分。
「恋」にはそんなふうに、センチメンタルキープパワーがある。好きな人に欲情する、これまたパワーみなぎることで。
私は好きな人の腕にうっとりします。
車のハンドル握ってるときの手首からひじの間。
ゴツい腕時計が映える肌の色。
その腕が自分に巻きつくことを想像しては、「巻きつく未来」を手に入れることの難しさに憂う(← その憂いに酔っている)
好きな人以外のパーツに目を向けることってほとんどないです。
見ないようにしてるのか?
いや、アウトオブ眼中という気もする。恋する人とそれ以外では、もう大きく違うのです。
「恋する人」を目の前にすると、細胞全部が喜んでいる気がする。
なんなら脳が先走って子宮方面へ幸福ラッパ鳴らしてんじゃないかと思う。
「ついに!?」と、体内でドラマを期待するが、現実はただ会話して終わり・なんなら会話もできなかったりして。
全身でグァっっかりしてね。
剥がれる内膜よ、すみません。
生殖のチャンスを細胞レベルで待ち受けてる気がしますよね。
子孫繁栄のために「恋という福」がプログラミングされてんだとしたら、「でしょうね」と思う。
ただ、本当に人類繁栄するには「多様性」がすごく大事みたいですよね。
「みんな同じ」という状態は、命を繋いでいくのにリスクがあるらしい。
でも現実、自分にマイノリティ性を感じると、はじかれたような・間違ってるのかな?みたいな居たたまれなさも湧いたりする。
特に恋や性、セクシュアリティで「人と違う」「わからない」と感じると、少し前まで恋愛至上主義みたいなこんな時代じゃ居場所ないように思いますよね。それに、男の人すべてを信じるわけにいかない。
今こういう時代じゃ「子孫繁栄より”自分を守る”ことのほうがずっと大事」という価値観が広がっていくのも当然と思う。
恋愛の負のパワーも相当強いと思う。
支配欲やコントロール不能な性欲、恋に敗れれば死だってちらつく。
「自分が生きるために」という大目的の前で恋愛が警戒・忌避対象となることだってあると思いますよね。
リスクがありすぎる恋愛。
「体を開くこと」にしても、何かしらの痛みを伴うわけで、毎回いくらかの恐怖・緊張がある。男性=危険みたいに書いてすみません。
でもなんか、「信じること」のできる人がいつでも人間性高く評価されたりするけど、個人に備わった警戒心にも意味があるはずと強く思って。
恋愛に重きを置かずサクサク生きていけたらいいけれど、恋というのはある意味、命懸けですよ。
何やってんだか・何欲してんだかわかんねぇなってことばっかですよ。
恋愛という素晴らしきパワーに、なぜ「結婚」という目的を付さなきゃいけないのか。恋ってそんなパワーを発するから、「恋愛飛ばして結婚したい」という声がコスパ重視の若者間で上がるのってよくわかる。
私も生殖適齢期を過ぎたからか、もう恋はないな…と思ったり「くだらねぇ」と悪態つきたくなることも増えましたが(極端)、こうやって書いてると全身が喜びに満ちた恋愛期間が思い出されて楽しくなってきました。
とはいえ「どんどん恋するのよ!」とか言うハッスルおばさんになりたくない。
-
自分に孤独は必須な気がして
「今ものすごく孤独」
そういう夢を時々見る。
街のどこにも居場所がない。私は人と近しい関係になると態度が雑になることを自覚している。
まず、目を合わせて微笑み合うみたいなことをしなくなるのです。
そんなん恥ずかしいだろ、みたいな態度にいつからか変わってしまう。
それを許してくれるのは母親しかいないと思う。
だから母親以外の誰かと強固な関係を築く旅に出たのに、うまくいかない…みたいなことをずっとやってる気がします。すごく好きな人から雑な扱いを受けるのも悲しい。
「こっちだって!」と、マウント返しみたいなことをする。
私が雑っぽくなるから相手もそうなるのかもしれない。
どんなに大好きで交際しても、1年経たずに雑味が出る。
でも、そんなに悪いことなのか。人と距離を取ろうと心掛けたのは40代になってから。
それなりの距離があればこそ、相手にすごく尊重の念を抱けるし、そのモードが継続する。
相手を大事に・愛情深く思える距離感。
だけど、それだと「心が埋められる」という感じはない。
孤独が常に胸をそよそよして、孤独と尊重ってセットなんだなという諦念に今向かおうとしている。
失敗があるのです。
すごくすごく親しい友がいた。
「あなたがいてくれれば私はいいの」とまで言ってくれた女性。
家に誰かを招いて料理を振る舞う、というのは私にとってよっぽどのことで、それは彼女にしかしていない。
時に涙を見せるほど心を開いた。
でも、家族みたいに錯覚してしまったのです。
彼女を把握できない時間にすごくイラついてそれをぶつけたり、なんでも味方してくれる一心同体感を期待した。
いや、言葉では「味方よ」みたいなことを言うのに、職場での態度がどうもそう見えない。
友達としてだけど、大好きすぎて振り回されすぎて、思い通りにならないことを「不信」と結びつけてしまい、一度喧嘩してから実質友達解消となりました。
恋愛の破局状態とほぼ似ていた。「私のこと考えてよ!」って求めすぎたのは、相手の気持ちや都合を考えない自分の雑さから来てると思ってる。
今は職場で笑顔を向け合えるようになったし、彼女は変わらず優しい。
けど、雑なのに人に期待する自分への罪悪感と、「振り回された」という不信の気持ちが蘇るので、前のように戻れるとしても相当時間がかかるだろう。
近いと自分は期待する。
ふてくされると反抗期の中学生みたいな態度になる。
自分のこのあたりをどうにかしたいと思って幾年月。
近しくなって期待して傷つけ合ってしまうなら、永遠に尊重できる距離をキープしてたいもの。
孤独を選ぶしかないんだ。もしくは傷つき合い上等で人と関わりまくって、ドロドロのムカムカのイライラの日々でありつつ「戻る場所がある」と思える関係に突入していくかだ。
かつてはそういうのこそあるべき関係性と思ってた。
言いたいこと何でも言って。
傷つけようが率直さに勝るものはないと言わんばかりに。お母さんの子宮に戻りたいんだろうか。
はたまた4歳くらいの自分と父親との関係をずっと求めてるんだろうか。
どんなに雑でもお姫様のように許されつつ、愛情たっぷり注がれる関係。
でもそんな願望は自分だけじゃない気がする。近しいことによる弊害って、すごく可視化されて。
家族も恋人関係も、かつて耐えてたことの中にモラハラ要素が見出され。
もう耐える必要はないんだよと思う。
でもある程度耐えなきゃ、関係は結ばれないんじゃないかとも思う。
その「関係」って「家族」とか「恋人」とくくられるものだとして。
だから人は関係を選ばなくなっているんじゃないか。
関係がそんなに人を傷つけるなら。
互いの雑さにがっかりしては「もっといい人がいるはず」とさまようのなら。
人はなぜ深い関係を求めるのか。
いや、そうじゃなきゃ家族は形成されず、人口も増えないのでしょう。
でも私は合理性があるんだろうと思ってた。
くっつくことの実際的なメリット。
今、「精神の結びつき」みたいのがすごく「関係の理想」とされて、「近しくて、こんなにうまくいってるカップル」がSNSとかコラムで毎日のように紹介されたり申告したり。
うそでしょ?と思いながら読んでいる。
「ほんとだってば!」という続編も出されては読み、自分の深部をしっくりさせようとする。
とかいって、「そういうカップリングを形成できる人が人として最高レベル」という雰囲気に私は反発してるんだと思う。
何度「関係」に挑んでもうまくいかなかった自分が「お前は雑人間だからな」と言われてるようで。そんな私にとって「関係」は合理的じゃない。今のところ。
近しくても尊重し合える筋肉がいつか、つくのかもしれないけど。
-
光る君へと宙わたる終話
楽しみに見ていたNHKのドラマ2つ、終わってしまいました。
寂しい…「光る君へ」はまさかM-1とずらしたってことないですよね。
でも確かにM-1によって「光る君へ」最終回の存在が薄まったら、腹立つ気がしますね。
妥当な放送スケジュールだと思います(何様だっての)火10の「宙わたる教室」特に最終回。
窪田正孝さんの演技に「この人、只者じゃないな」とゾワゾワしました。感動しきりでした。
あのドラマは恋愛要素がほとんどなく、また誰が男前とか可愛いとかいうルックスの描写もない。
舞台が新宿の定時制高校ということで、個性的な面々が集っているものの、窪田正孝さん演じる藤竹という教師がまた一見無個性で、おとなしそうな地味〜な感じ。ところがあのドラマは「無個性なんて人は誰もいない」ということを示してくれてるかのような人物描写で、ところどころ泣きました。
兄の家庭内暴力に人知れずず苦しんでいる高校生役の方(南出凌嘉さん)、最初すんごい嫌なやつだったのに、後半のつきものが落ちたような表情がすごかったし。あと印象的だった人の感想(敬称略)
・小林虎之介(柳田役)・・この方の登場に「誰!?」とすぐ検索に走りましたね。
妻夫木くん…じゃないよね?と何度も思った。
この方の切ない演技には胸打たれっぱなしでしたが、最終回のスピーチで黙ってしまったところ→そして話し出す表情。報われなかった柳田のなんとも幸福そうな表情がすごかった。うっとりしました。・伊東蒼(佳純役)・・伊東さんといえば、これまで何度も名演技を見せてくれましたが、このドラマに抜擢したという製作陣の本気度がビシバシ感じられます。
最後、研究発表を終えてみんなほっとして打ち上げに向かうのに号泣してるところとか。
伊東さんはなぜあんなに苦悩を抱えたり幸福に手を伸ばそうとする役が似合うんだろう。・イッセー尾形(長嶺役)・・イッセーさんとしては珍しくというか、おもしろさが封印された老害チックなおじさんの役でした。
でもこういうオヤジいるよね!という頑固な昭和くささと、「本当は温かい人」の滲んだ感じがさすがです。
最終回だけ、ちょっとイッセーさんっぽさが出てた気がします(民謡歌ってた)・ガウちゃん(越川アンジェラ)・・あのガウちゃんが!ですよ。ずっと5時夢月曜でマツコにいじられまくってたあのガウちゃん。むちゃくちゃ温かい役で感動しました。
大女優になりたいとずっと言ってて、冷笑の雰囲気になるのも当然という中でガウちゃんはいつでも真剣だった。それを思い出してなおさら泣けてきました。あと、また中村蒼さんがいい役で…。
男前設定ではなかったけど、あんなにいいやつそうな人柄がにじむ男前俳優ってそうはいないんじゃないかと思いましたよ。そんでやっぱ男前なので割とうっとり見てました。
窪田正孝さんのホロスコープを見てみたのです。
やっぱり!と思ったのが、太陽ー冥王星スクエア。
太陽は獅子座です。
柳田と佳純の研究発表を見守る目にものすごく惹きつけられて、あそこで「只者じゃない」と思った。
こんな演技をなぜできるのだろうと。
そのゆえんを太陽ー冥王星スクエアに勝手に感じたんですよね。
「ここまでくるのに多くの挫折・苦難があった」という「傷」がどうしたって滲んでしまう。
窪田さんは昔からそういう演技ができる方で、ヒューマンドラマには欠かせない方。
「宙わたる」でも、へし折られた過去がある。
あのどうしようもなさにすごく共感したけど、私だったらウジウジしたまま小さく収まるだろう。
窪田さん演じた藤竹は、別角度から希望を目指して、大きな壁を攻略する。
そこまでの意図はないかもですが、苦しくても信念を貫く道を選ぶ。
月は牡牛か双子。どっちも窪田さんっぽい。
近くには木星がある。双子かなぁという予想。「光る君へ」も、もう1年経つのか!と驚くほど毎回楽しみに見てました。
今まで大河は、どんなに話題作でも途中で一時脱落期間があったのです。
戦の計画あたりが苦手で。
やっぱり女性じゃないと「戦のない世の中」を描けないんじゃないかと、ついそう思っちゃいます。
でも決して退屈しなかった。
大石静先生なので、恋愛要素は濃厚だったけど、思いのひだまで表現してくれるような繊細さに毎回うなってました。恋愛だけじゃなく、人間関係全般の心模様。道長周辺の男たちの描写がまるで難関私立男子校のようでした。
家柄が良すぎて自分が恵まれてることにピンとこない鈍感男・道長みたいな人がいれば、自分のスペックに自分でうっとりする公任(町田啓太)や斉信(金田哲)、本当におっとりした品のいいお坊ちゃん行成(渡辺大知)
行成のおっとり感がいつも癒やしでしたね…。
渡辺大知さん、今までの演技とちょっと違うというか、お坊ちゃん感がすんごいハマってたし、とはいえ苦悩もするし誠実で、柄本佑さんとの間の友情を超えたムードが美しかったです。とにかく大勢の出演者について書き連ねたいですが、最終話の感想にとどめます。
晩年の道長、あの柄本佑さんが本当に先が長くない病人の顔で、凄みがありましたね。
色がどんどん土っぽくなって、吉高由里子さんが会いに来ても1日で逝っちゃうかな…と思いきや、まひろの物語パワーで命をもたせた。
最後、背後からの介護にはさすがに驚きましたね(韻がすごい)
介護というより失楽園みたいで。
あそこに正妻の黒木華さんが「そろそろ…」と声をかける。
昭和の愛人ドラマを見てるようでした。吉高由里子さんって方は目の演技が本当に美しい。
道長と9つのころからもう本当にいろいろあった。離れたいときもあったし、結局最後は呼ばれたりして、「しょうがないわね…」という余裕すら漂って、50代みたいな色気を漂わせてたのがすごいです。
たぶん道長は60近くで、あのころにしたらおじいちゃん。
もう色恋なんて…って諦めたのも一瞬で、単に体力がないから。
まひろを近くに感じて、生命力がいくらか蘇ったんでしょうね。わーい、みたいな。
そういう男のシンプルさを感じられるのも楽しかったんですよね。いろんな関係性があった。
周明とまひろは、やっぱあれ惹かれあってたのかな。
友情にしてもいい関係だなぁと思った。
それこそ枯れきった2人でも、周明となら老後をともにしてもいいとまひろも思ったかもしれない。一条天皇と定子のような、あそこまでの濃厚恋愛感情は実はよくわからないです。
濃厚さって一瞬のような気もするし、あそこまでになるっていくらか病的な気がする。
2人のシーンは美しかったけど、あくまでドラマだからという距離のある感じ。道長の妻・倫子が最終回で、妻としての自分の思いを藤式部にぶつけてましたが、ハッとしました。
吉高さんの演技が毎回切なくて、それだけにまひろに肩入れというか感情移入して見てましたが、倫子からすれば夫の心を奪い、自分達の娘・彰子からも母親以上に信頼を得て、藤式部が宮中から去ると夫は出家までしてしまった。
お前ってなんなの?と、そりゃ不愉快になりますよ。
それなのに、道長の心の安寧・幸福を願う。
深い愛…とも見えるけど、権力を手に入れて満たされた人の余裕にも見えた。
それくらい許しましょうと。
倫子もまた、そういう余裕が育まれるほど豊かに幸せに育てられてきたんだなぁと感じられるほど。まひろと最後のシーンを共にするのは、双寿丸?と思いきや、乙丸でした。矢部太郎さん。
矢部さんは前回の「帰りたい!」というわめきにに本当泣けて…。
あの駄々っ子みたいなわめきと、まひろの泣き笑いは名シーンだと思う。
竜星涼さんも最後までひょうひょうとしてて、いい役でしたね。
柄本佑さんのホロスコープを見てみました。
太陽は射手座で天王星と合。
自分が平凡な生き方を望んでも、そうはならないんでしょうね。
金星が蠍で冥王星と合。濃い!
まひろとの長年の濃厚愛はこれなのだな!と感じました。
火星は魚座で木星と合。
なんか恵まれちゃうんだよね、地位も女性関係も、みたいな?
この火星は金星とトラインです。
月は双子。
家庭内では義務果たしたらあと、さらっとしてるかもしれない。
恋愛の方がどうしても深刻になってしまう。「光る君へ」についてはまだ語り足りないような。
今後、振り返りの放送があったらまた書きたくなるかもしれません。