日記・お知らせ・人間
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会話備忘録人と1日中一緒にいると、翌日すごく疲れる・・
ということを若いときから繰り返してるので、私は何かそういう性質なんだと思う。
疲れない人もいる。
でもすごく疲れる人もいる。
苦手な人=疲れるとも限らない。
いい人で、一緒にいることに安心してるのに翌日疲れることもある。
20代とか30代とか若い人は全然疲れない。
あっちは疲れてるかも。
やっぱり年齢がいくと妙な常識みたいのが育つから。
各々が培ってきた「正解」がなんて厄介なのか。
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私の職場は半分くらいが独身女性で、気づくと似たような人とばかり話している。
独身者との家族の話はせいぜい両親の老いのことくらいで、あとはTVの話、スーパーの話、美容院でのオーダーが難しくなった話などなど。
一方、新しいバイト先の女性はおそらくほとんど既婚者。
というか既婚であることが標準で多数派のはずで、私はそのことをすっかり忘れていた。
「私の夫が」「私の子どもが」
そこから語られる会話にどう対応したらいいのか、正解がわからなくなっていた。
正解も何も、「そうなんですね〜」って感じたまま言えばいいんだろうし、そう言った。
でももっと何か、気の利かせた掘り下げが必要な気がして焦る。
子持ちの友人も家族の話はよく出るけど、会話に困った記憶はない。
なのに仕事先での(まだよく知らない相手の)家庭の話に正解を探した。
「桜とひまわりと紅葉は見に行ったので、あと雪景色でコンプリートです」
また別の既婚女性からは家族で季節を巡る旅を楽しんでる話を聞いた。
きっとコンプリートできますよ。
そう言おうとしたけど、そんな返答を望んでるわけじゃないだろう。
でも、自分の季節感のない日常からするとコンプリートどころか桜の旅もままならない。
しかも、どれも車じゃないと行けないような場所で、運転手は旦那さん。
「コンプリート」というワードが持つスペシャル感が家族持ちの特権のように響き、そのことを殊更称えたかった。
家族がいるというだけで難所への旅行ができ、頑丈なマンションに住み、扱いにくいペットを飼うこともできる。
あなた恵まれてますよ!
・・・そんな返しじゃ会話にもならないだろう。
だから、正解っぽく掘り下げてみる。
「車、何時間くらいかかります?」
この掘り下げもなかなか貧弱だけど、「道の駅に寄ったりしたから、3時間くらい?」という返事にまた打ちのめされる。
道の駅・・!
郊外のイオンと道の駅は常々自分に関係のないところと思っていた。
車がある人だけが楽しめる場所、道の駅。
しかも1人で行くより家族と行った方が野菜も輝いて見えるだろう。
週末になると家族がごった返すあの郊外のレジャー施設にはとんと縁がないけども、あの混雑の中で心から楽しむ家族の話を実際聞くと、うっかり動揺してしまう。
でもそういう動揺を隠しながらまた掘り下げにチャレンジするから、へとへとになるんだと思う。
「お子さん、車酔い大丈夫ですか?」
クソつまんない疑問しか湧かない。
私の郊外クルマ旅の思い出といえば、甥っ子が車内でずっと吐いてたこと。
それでも旅行は楽しかった。
でも帰ってすぐに姉から「また行こうね」と連絡が来たときうんざりした。
家族になるとレジャーがそんなに楽しくなるんだろうか。
この間はバイト先の男性から「都内の実家は売って、今は群馬の温泉地が実家です」という話を聞いた。
その人と会話するのは2回目で、なぜそんなことをいきなりオープンにしてくれたのかわからない。
でも「温泉、いいですね〜」とは言いやすかった。
やはり「実家に行く」と「温泉に行く」がセットらしく、奥さんも喜ぶとのことだった。
「あ、奥さんいるんだ」というのが正直な心の声だったけど、それは引っ込めた。
その声に意味があるように受け取られたくないし。
あなたが既婚だろうが未婚だろうがまったくどうでもいいですよ、という雰囲気を強調した。
本当にどうでもいいはずなのに、「あ、既婚なんだ」という印象が翌日まで残るから疲れる。
「距離が近い」と感じたんだ。
その距離感で既婚なんだ…という警戒心だと思う。
「いやいや、仲間としての距離感だよ?」と言う男性はいる。
そういうタイプは危ないと、培ってきた私の経験がアラートを鳴らす。
こっちがその警戒心を見せると、「そんなつもりじゃねぇよ、ババァ」という敵対心を急に見せてくるんですよ。
本当に仲間意識が強い人は一緒にいてわかる。もっとホワッとする。
その人はどうもギラギラしてるというか。
その男性はこの間、小野花梨みたいな新人にべったりだった。
バイト先ではまだ新人なので、いろいろ聞かれることがある。
「お住まいどちら?」
私はわりと具体的に街の名前を言ったが、お相手は「私は〇〇区」と言う。
あ!と思った。
私も区で濁せばよかった。
私は住まい情報すら聞かれる・答えるという過程に「ぐぐ…」と詰まってしまう。
なぜか「言いたくない」気持ちがありつつ、でも言っといたほうが楽なこともあると知っている。
いろんなことをクローズするより、思い切ってオープンにした方が何かとスムーズなんだ。
でもその葛藤に疲れる・・
いろんな質問の中には「既婚?未婚?」という意図もあるのだろう。
少し前の自分なら、独身ですみません的なポーズで自己紹介してたけど、もうそんなことしたくない。
そしたらいつの間にか堂々たる未婚独身者になってたもんで。
別に何も恥じることもない。
心からそう思えてきたんだけど、会話のバリエーションがとても狭まってる気もする。
関心のないことをうまく掘り下げられない。
人の海外旅行もどうでもいいと思ってしまうので、韓国に行ったと言われても問いが浮かばない。
「成田?羽田?」「成田じゃ遠いね」「エクスプレス?」とか、聞かれた相手はどう思ってるだろう。
それでも嬉々として「エクスプレス好きなんだけど、高いね!」「今回は京成でゆっくりと」「しかし都営浅草線は成田行きも羽田行きもあるからすごいね」「三浦海岸も行くよ」とかとか広げてくれる友もいるので、やっぱりそういう人と仲良くなる宿命なんだろう。
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バイト備忘録その2(自分らしさとは)バイトを始めて1ヶ月が過ぎ、仕事がだいぶ分かってきた。
休憩室でどう過ごすかも、「これで行こう」みたいな感じがつかめてきましたかね。
無理に会話しない。
けどアンテナは完全オフしない。
笑えそうな会話には一緒に笑って、空気に自然に乗る感じ。
「この職場でどんな自分を見せるか?」
というのは、学生時代からの問題だった。
理想の自分は、最初から明るくてボケもツッコミも誰にでもできる人。
もちろんデリカシーや優しさも忘れない。
でも、なんだかんだ人見知りが続くのが実情。
1人で大人しく座りつつ、周りの会話には優しく微笑む。
話に入りたいという気持ちが募っても、入れそうな会話じゃない。
もしくは聞き逃しちゃって話の全容が不明。
この状態は短ければ3ヶ月、長いと1年以上。
半年のバイト期間、ついにニコニコ微笑むだけの人だったこともたくさんある。
今振り返れば、別に無理して人間関係築くこともないので、「それでよかった」と思える。
それなのに、寂しさがどうも拭えない。
私は一体どうありたいのだろう。
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このバイト先のベテラン女性が休憩中に「ねぇ、うちの子、見て見て〜!」と大声で、携帯をほうぼうに差し出した。
新しいワンちゃんを迎えたばかりらしい。
ベテランさんならではの行動だな…と少し離れたところで思いつつ、ちょっと自分にはできないとも思った。
周りにいた大学生男子はノリノリでベテランさんの携帯を覗き込んだ。
「可愛いっすね〜」と、3人くらいが目を細めたり丸めたり歯を出して笑う。
その爽やかさよ!
引いてる人が誰もいない(ように見えること)に内心すごく驚いていた。
自分はちょっと引いてたから。
「見て見て〜!」という行動が自分の中にパターンとしてない。
しかも相手は大学生男子。
いや、「ない」というか禁じてる気がする。
そんなことはできないと。
「そんなこと」とはなんだろう。
つまり「自分らしさを出すこと」じゃないか。
私が本当の本音で理想とするのは、「職場で自分らしさを出せること」なんだと思う。
そういう職場はあったかな。
あった記憶は感覚として確かにある。
でもどこだっけ・・どんな環境のとこだっけ。
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この新しいバイト先では、私より前に採用されたいわば先輩とペアを組みながら仕事を覚えていく。
先輩は年上女性のこともあれば、30歳くらいの女性のこともある。
最初にペアを組んだ年上女性は、すごく丁寧に要点を押さえた指導をしてくれた。
優しいのに緊張感のあるペアだった。
30歳くらいの女性は逆にすごくゆるい仕事ぶりで、これがまた感銘を受けた。
「面倒」と思うことは極力避けようとする。
でも、だからこそ誰も傷つけない。誰のことも罰しない。
良い意味での放置を彼女から学んだ気がしたし、またこの人とペアを組みたいと思った。
何よりとても気が楽で、女性相手にこんなことは珍しい。
男子大学生とペアを組むこともある。
これがまた気楽で!!
仕事を教わる最初こそ敬語で話してたものの、気づいたらタメ口になっている私。
逆に大学生を縮み上がらせてる気がした。
でも私という人は、男子大学生が縮み上がってようが関係ないと思ったりする。
女子学生だとハッとして、謙虚な自分に戻るだろう。
これだ!と思った。
「自分らしさ」とは、男子と話してるときに出てくるのだなと。
なぜかちょっと上から目線の自分(獅子月だからか?)
「へぇ〜」という態度がMAXの自分。
女性の前で上から目線って本当やりにくい(だから引っ込める)
女性には「へぇ〜」を閉じ込めて「うんうん!」と目に星を入れる(疲れる)
男子というのがまた純粋な人たちで、息子などいないのに5歳の息子を見てる気持ちになる。いや、13歳の甥っ子か。
というか男子というのは、なぜこんなにも気楽なのだろう。
以前に「気楽」と感じてた職場を思い出しました。
男性の中に私1人女という工事現場。
「男子」という年齢の人は誰もおらず、ほとんどがおじさん。
あのころ私は20代で、若手社員は30前後。
そりゃ作業所を汚くされると「いい加減にしろよ」と思うけど、「やれやれ」という表情すら隠す必要がなかった。
そりゃおもしろくないおじさんの話に作り笑いをすることもある。
でも、女性の話に合わせようとする気遣いに比べ軽い。
女性の前で「やれやれ」という顔はできない。
女性の話はただ聞いてるだけじゃだめで、共感それから気の利いたコメントをしなくてはならない。
「ならない」ということもないんだけど、女性9割の職場でそういうルールがしみついた。
新しいバイト先では、男子学生の前で現れる自分を徐々に全体にスライドしていけるんじゃないか。
そんな余地を感じた。
みんな受け入れてくれそうな余地。
ベテラン女性が男子大学生をテニスに誘ってた。
さすがに男子は引くだろう…?と見てたけど、ノリノリで携帯スケジュールをチェックして、行く気満々なことに驚いた。
しかもまぁまぁイケメン学生。
テニス未経験者だという。
なのに50代女性とテニスに行くんだと(他も数人で)
なんて夢のあるバイト先だろう。
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バイト備忘録
先月から新しいバイトを始めました。
この歳にして長時間の立ち仕事。
本業がデスクワークだし、日頃運動もしないのでいいかと思ったけど疲れるわ〜
腰にくる。
意外と肩も凝るもんで。
でもこのバイト先は私より年上・同年代と思われる女性が多く働いてる。
私もじきに慣れるのでしょう。
あと大学生男子が多い。
母親と息子みたいな構成(と感じた)
大学生女子はさすがに輝きが違う。
仕事上、地味な制服・髪型でも断然キラキラしてる。
私もあんな輝きを放ってたんだろうか。
自分じゃ当然わかんないわけで。
大学生男子は2人並べばすぐじゃれ合う。
その会話のほとんどがよくわかんない。
早口でモゴモゴしてるのになぜ会話が成立してるのか。
その不明な会話の前で優しく微笑む4、50代女性。
きっと同じ年頃の子どもがいるのだろう。
私は微笑ましい気持ちにあんまならないけど、雰囲気で口角は上げてみる。
そこに3、40代の男性が休憩室に入ってきた。
男子たちの会話にすぐさまツッコミを入れて笑いの輪が一層広がる。
わからない。
何を言ってるのか。なぜ笑ってるのか。
男の世界ってこういうとこ謎なんだよな。
男から見た女も謎とは思う。
明るくてすがすがしい職場と思ってたけど、数日通うと女性同士の愚痴に気付くようになった。
「・・目も合わせないのよ」
「・・表情鋭くなったよね」
「・・キャンキャン怒られたんだから」
「・・更年期じゃない?」
ここで近くに座ってた男性がピクっと動いた。
なぜか私が居たたまれない。
私は愚痴に参加せず携帯見るふりしてたけど、ほうぼうにアンテナを広げていた。
正直、誰のことを言ってるか知りたくてしょうがない。
更年期ということは大学生じゃないだろう。
4、50代の誰か・・表情が鋭い人・・
とはいえ入ったばかりの私じゃまだわかりようがない。
案外、愚痴を言われる方より言う方がトラブルを起こしたりする。
巻き込まれたくない。
私と同じ時期に入った女性は人見知りしない性格なのか、休憩室に誰かいれば会話をはずませている。
そのおかげで、彼女といれば私も孤独にならずに済む。
でも、疲れる。
私は最近、無理をしない自分でいようと決めたんだ。
なのに、とりあえず口角上げて「悪意ないオーラ」を出すよう努めたりしてる。
これもなかなか疲れるのに、頑張って人の輪に入るなんて休憩の意味がない。
休憩時間はしんから休憩したい。
それを責める人なんていないだろう。
休憩室に男性が多いときは気にせず無口でいられるのに、女性がいると頑張ろうとする癖。
男性に対しては、「やべっ」とかうっかり言っても問題ない。
むしろ男性は「その人の素」が現れるほど、それを楽しむ人が多い気がする。
女性の前でガラの悪い自分が出てしまったとき、ほとんどの女性はにこにこしてくれるけど、その心はどうかわからない。
こんな警戒心を40年ぐらい抱いてる気がする。
「あなたに対して悪意は持ってない」
これだけじゃ通用しない女性同士特有の何か。
もっと何か働きかけて「安心させる」「信頼してもらう」、この域に達しないと真の仲間にはなれない。
小学生の時にはすでにこんなこと体感してた記憶。
あとバイトしてつくづく感じたのは、昭和生まれのタチの悪さ。
自戒も込めてだけど、「頑張る」を大真面目にやる癖が染み付いている。
熱血と根性で乗り切ることを「善きこと」と思ってる問題の根深さ。
いや、実際は昭和生まれの根性があるからどこの職場も成り立ってんだろうとも思う。
昭和生まれの律儀さ
昭和生まれのしごかれ経験
昭和生まれの低姿勢
昭和生まれの競争心(承認欲求)
私はこれがベースにあることをがっつり自覚してるけど、これが自分をひどく消耗させてることに改めて気づいた。
というのは、おそらく平成生まれと思われる人たちの「あーべつにいいっすよ」感。
このぬるい風を浴びたときの衝撃ったらなかった。
すべてにおいて「いいっす、いいっす」「そんな感じでOKっす」
怒らない!!
昭和世代の良くない癖といえば「これ絶対やっちゃダメ」という禁止ワードで人を縮み上がら
せることと思う。
その「絶対ダメ」がとにかく散りばめられ、これがまた神経すり減るんだ。
この教育も正しい部分はそりゃあるだろうけど、「ダメ」から入るのと「いいっす」から入るのとでは全然違いますね。気楽さが。
そもそも新人に「気楽さ」なんて禁じられたものという共通認識があったんじゃなかろうか。
これまでは帰りの電車内でめいっぱい反省モードに入り、「人の目」をじっくり振り返りながら「大丈夫だっただろうか」と不安なまま夜を明かしていた。
たぶん、いつだって新人に求められる範囲のことはできてたと思うのに、いつだって「それ以上できなかったこと」に心を痛めていた。
なぜもっと気を利かせられなかったのか。
そんな必要はなかったかも…と思いつつ、「心痛め疲れ果てた新人っぽさ」は誰かを満足?安心?させてたのだろう。
しかもその頑張りはほとんど報われず、搾取感ばかりが募っていく。
だけど令和のバイト現場じゃ、過度な頑張りなど求められてないように感じた。
頑張りすぎても誰もケアしちゃくれない。
人は人、自分は自分。
それでいいんだと思う。
今度は心すり減らさず口角上げすぎずに淡々と自分のために働こうと思う。
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直感備忘録
「結局、自分の直感は正しいものだ」
そんなことが書かれた本を偶然続けて読んだ。
だからというわけじゃないけど、
今日のウインカーネリアン。
昨日のトーセンエスクード。
どちらも騎手は三浦皇成で、どちらにも複勝200円賭けていた。パドックでピンときた(TV)
どちらの馬も10番以下人気。三浦皇成には時々ピン!と来る時がある。
その直感のまま買って「来た!」ということが多い。
ただ、ウインカーネリアンを単勝で買わなかったことが悔やまれた。
買ってれば100円で5000円か…
来てたんだよ、脳内ではピン!と来てたんだけど、まさか…とか思っちゃって。
この間ふと、「成城石井寄りたい」と猛烈に思った。
しかもアトレの中の成城石井。
カップゼリーが食べたい!と思った。
仕事で頑張ったからデザートでも食べたいと、こんなふうに思うのは自分にしちゃ珍しかった。
レジでルミネカード(viewカード)を探す。
アトレでもポイントつくからね。
が、財布に見当たらない。
・・落としたのかもしれない。
前日にルミネ10%オフの買い物をした。
結果的にやっぱルミネで落としてて、しかもレジの隙間という微妙なとこで見つかって、誰に悪用されることもなく無害だった。
いやはやこれも、アトレに寄らなければカードの紛失なんてずっと気づけなかったはず。
最近は10%オフじゃないとルミネ行ってないし。
頼りになるじゃねぇか、直感。
時々、選択が「降りてきた」ように感じる。
降りてきたなら「それしかやりたくない」と、一択のために動く。
そんなときは大概ものごとがシンプルに・スムーズに運ぶ。
誰にでもよくあることかもしれない。
ただ、スムーズにいくことばかりじゃない。
こっちに行きたいと心が求めてるけど、不安がいっぱい・怖い!と足がすくむこともある。
そんなとき、不思議なことにどんどん背中が押される感覚になり、「その他」の選択肢がどんどん排除されて、行くしかないと腹をくくるのは歩みの直前。
そんなときもまた、「良い景色」が広がることが多い。
行動した先の扉が一向に開かないこともある。
相手とつながらない。連絡が取れない。
約束がキャンセルになる。具合が悪くなって帰る等々。
それもまた「こっちじゃない」という直感的サインなのかもしれない。
とある苦手な人のことで上司に相談したことがあった。
なるべくチームを一緒にしないでほしいと。
苦手というよりハラスメントに近い苦痛を受けてるから、とまで言ったのに、同じチームが組まれてて憤慨&ショックを受けた。
ところが同じチームになった日は仕事がとてもうまくいって、逆に結束が強まったりした。
自分の望んだことと真逆の展開でもこんなことが起こるんだな。
天の采配、みたいなのに乗るしかないみたいな。
音楽を聴くと無邪気な何かが内側で踊り出す。
そうなると直感も冴えてくるような。
だけど「音楽聴く」ってのも今じゃ面倒くさく、なかなかスピーカーをオンにできないこともある。
今いろんなエンタメありますからね。
でも疲れた時に音楽かけると、内側のしおれた茎みたいのがシャキッと立ち上がるから。
あとはフラワーロックみたいに踊らせておく。
内側の何か、ゆらゆらと。
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危なかったかもしれないある日の車内
去年の9月。
埼玉の実家から帰る夕方の私鉄。
平日か土日かはちょっと忘れました。
座席はほとんど埋まってて、私は子どもを連れた女性が立ったあとに座った。
その女性は下車しなかったので、お子さんが窓の外を見たくなったのかな?と、ふと思った。私が座ると、右隣の男性がいきなりジロジロ見てくる。
見すぎだろ!とは思ったけど、「そういう癖の人?」と思ってとりあえず気にしないことにした。
男性は50後半か60前半かというところ。痩せ型。あれ?と思ったのは、私の左隣に女性が腰掛けると、身を乗り出して彼女のこともジロジロ見た時。
次の停車駅で乗ってきた女性全員(3人くらい)のことも次々ガン見する。
今思うと、それは物色・選別という感じ。
私が乗った時に子連れの女性が席立ったのも、ガン見に耐えられなかったからじゃないのか。男性の右に若い女性が腰掛けた。
これまで乗ってきた女性の中で特におとなしそうで小柄な方。
男のガン見度がさらにアップしたことが私にはわかった。
彼女の頭から足先までを近距離でジロジロ。
女性はすぐ席を立ち、逃げるようにドアの前へ移動。
と、男も女性を追いかけるように隣に立ち、ジロジロ再開!
完全にターゲットにされている。やべぇよ、あいつ・・
と思いながら車内を見渡すも、その男を気に留める人はいなかった。
私はとりわけ男性の乗客にこの事態を察して欲しかったけど、男性ってああいうときめちゃ鈍感じゃないですか?
ずーっと携帯見てたり、のんきな顔で隣の人と会話してたりとか。
私は、ガン見オヤジと女性の距離に目を光らせていた。
女性が触れられでもしたら、すぐ声を上げようと思った頃、電車はやっと停車!女性はいったん降り、男も降りる。
が!女性はきびすを返して車内に戻る。
男は「あ、あれ?」という感じで振り返った。
「どこ行った?」と車内に目を向ける間にドアクローズ。
っぶねー!!ナイス女性!!
・・というこの出来事の直後は「怖かった…」という感覚があったものの、時が経つにつれ「スケベなオヤジが電車にいて」という軽めの記憶に変わっていった。
でももし、あの女性の家があの停車駅だったら、オヤジはどこまでもついてったんじゃないだろうか。
あの女性は相当危険を察知して、「いったん降りてまた乗る」という高度な防衛ができたんだろうけど、もし軽めに捉える女性だったらどこかに引きずり込まれてたんじゃないのか。あのオヤジはあの駅で降りたことで衝動が収まったとも思えない。
新たなターゲットを探すんじゃないだろうか。
あの日は家に帰ったとしても、翌日、そのまた翌日も、ターゲットが獲得できるまで…当時もここまで想像してしまい、不快さはなかなか拭えなかった。
でも、あの当時の不快さや恐怖はやっぱりまっとうだった気がする。
神戸の事件が起きたことを知るとね・・
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よくこういう不安を口にすると、「そういう目に遭うのって若い子だけでしょププ(うちら関係ないって)」みたいなことを言う人がいる。
だからって「じゃあ、中年女性は警戒ゆるめましょ」ってことにならないだろう。
この手のヤカラが若い子を狙うのは、経験値が少ないことによる独特の隙があるからと思う。
独特の可愛らしさ、独特の気弱さ、そして独特の無防備さ。
ある程度の年齢になると、一瞬でヤバさを察するアンテナが育つはずなんですよ。
危険をキャッチ→即行動(逃げる・声を上げる・撃退する)という一連のことを瞬時にできるのが中年の良さ。
だから中年でも隙だらけの人は狙われるし、若い人でも撃退・防衛感をまとってる人は狙われないんじゃないでしょうか。
この手のヤカラは「怖い対象」をやたらこき下ろしたり忌避の態度を示すはずで、「ババァなんか狙ってねぇんだよ」とにらんでくるかもしれない。
そういう攻撃性を向けられる危険もある中年。
なので正義感もほどほどにしないと、それはそれで危ない。
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さっきも書いたけど、同じ車内の男性って本当になんも気づいてないのかなぁ。
数年前には、幼い女の子を連れた父親が電車に乗ってきて、私の隣の男がすぐその女児に興味を抱いたのがわかった、ということがあった。
無邪気に足を広げて座る女児に父親は気づかない。
私の隣の男は、「スカート内を見たい」という欲を隠さず体を傾けてのぞこうとする。
そんな男がいることに父親は気づかない!(なぜ!)
どうやって知らせようかと思ってるうち、隣の男は女児の足元に何かを転がして、拾うためにしゃがむという行動に出た。拾いながらのぞいた!
それでも気づかない父!(んでだよ)
・・いや、気づいたのかもしれない。次の駅で親子は降りた。かわりに乗ってきたのは女子高生で、男のターゲットはその子に変わる。
スカートからのぞく素足をガン見していた。
その女子高生も気づいたのかどうなのか割とすぐ降り、そしたら男はその席に移動!
体温か残り香を感じていたのだろう…キモ〜。そのほかにも、普通に盗撮する普通っぽい男も見かけたことあります。
しかもカップルの女性の胸元を背後から撮影していた。
カップルって意外と無防備なんですよね。
一緒にいた男性はやっぱり気づかない。
私が気づいた素振りを見せると、盗撮者は一瞬やめるものの、悪気なくまた再開しようとする。「見るだけならいいじゃないか」というのが、そういうヤカラの言い分だろうか。
「じゃあ、見るだけね」って、誰が思えるかよ!
警戒緩められっかよ!
新しい報道じゃ、神戸の犯人は「好みの女性」に付きまとったと。
この「好み」とか「好意」とか、限りなく恋に近いような感情って美化や正当化されがちだけど、好意と支配欲が結びつく人もいるように思う。
ストーカーとかDVする人って、愛してるとか言いながら相手を小動物のようにしか思ってないんじゃないのか。
可愛らしくて従順でいてほしい・いるべきだ。
その思いが裏切られるとすぐ逆上する。なぜなら下に見てるから。
「ヤれるはず」とすぐ思う。やっぱり下に見てるから。女性なら性的な不快体験、最低3度はあるだろう。
そのとき誰もが「馬鹿にされた」と強く感じたはずで。
私も満員電車で尻の割れ目に手を入れられたことがあった。
うっかりなわけがないことは、やられた自分とやったヤツだけが知ること。
だからどこにも証明できない。
「気のせいでは?」と言われたりする。
馬鹿にしやがって!!・・って最後は痴漢まで思い出しちゃったけど、性犯罪と「みくびられること」はつながっているはずで、かといって強気前面でいればダイレクトな攻撃の危険もある。
「人から見下されないような空気をまとう」「そううまく対応する」という高度な術を身につけなきゃならないのです。 -
ChatGPTメモ”同僚との距離感”
「距離感」という話をこの数年何度もしていますが、それは職場に「踏み込んでくる」と感じる人がいるから。
距離感の話をするとき、大体いつも同じ1、2名の人のことです。「そんなに親しくないのに個人的なことを質問してくる人」というのは平成期には多かった。
踏み込んだ質問が「良きコミュニケーション」の一種だった時代。
でもそれは過去のことになりつつありますね。
今、「ぐいぐい質問してくる」って恋愛初期・友人初期くらいしかあんま見かけない。
家庭のこと、実家のこと、恋愛のこと、休日の過ごし方などは、なんとなく聞くのも憚られるようになった。
でもわざわざそんな話題に踏み込まなくても、今たくさん情報がありますからね。
天気、スーパー、事件、流行り、お米、食べ物、ドラマなどなど。
「コミュニケーション」が第一目的なら、これらのことで十分事足りる。
私が苦手にしている人はわりと質問魔で、「なぜあなたにそんなこと答えなきゃいけないのか?」と率直に思ってしまう。
最近では「え、なぜ聞きたいの?」という表情を隠せなくなった。
だけど私もなぜこの人からの質問が嫌なのか。「そういうときはChatGPTに聞くと良い」という助言を得て、聞いてみました。
そしたら、これだ!という回答がもたらされたので、いつでも読み返せる自分用メモとしてここに貼ってみます。***************************
私の質問:「親しくないのに踏み込んだ質問をしてくる人の意図はなんでしょう?」
ChatGPTの回答:親しくないのに踏み込んだ質問をしてくる人の意図や心理には、いくつかのタイプが考えられます。以下のような可能性があります:
1. 距離感の感覚がずれている(無自覚)
- 他人との適切な距離感を測るのが苦手な人。
- 自分が気にしないことは相手も気にしないと思い込んでいる。
- 「親しみを込めて聞いている」つもりで悪気はないが、相手には唐突・不快に感じられる。
2. 支配・主導権を取りたい
- 踏み込んだ質問をすることで、相手の情報を先に得て会話の主導権を握りたい。
- 相手の反応を試すことで、どこまで踏み込んでいい相手かを見極めようとしていることも。
3. 自分語りの前振り
- 自分が同じテーマについて話したい/語りたいという下心があり、その導入として相手に質問している。
- たとえば「ご兄弟いるの?」の後に「私も弟がいてね…」というような展開。
4. 興味・関心がある(恋愛や噂好き含む)
- 好意、興味、関心があって踏み込んだことを聞いてくる。
- あるいは単純に「噂ネタ」や「プライベートな話題」が好きな人も同様に深掘りしてくる。
5. 空気を読まない or 不安からくる会話
- 話題に困っていて、思いついた質問をそのまま投げている(無神経だが悪意はない)。
- 沈黙が怖くて、とにかく何か話そうとして踏み込みすぎてしまう人も。
このように、**「悪気がないが配慮がない人」から、「意図的に情報を引き出したい人」**まで幅があります。
どんな内容の質問でそう感じましたか?(答えたくなければスルーで大丈夫です)
私:「実家の話に触れてほしくないのに、実家に帰る頻度を聞いておいて、実際その人は自分の地元の話をしたかった」
ChatGPTの回答:そのケース、非常に典型的な「自分の話をするための前振りとして他人に踏み込んだ質問をする」パターンです。
このような人の心理には、以下のような特徴があります:
◆ 自分の話に興味を持ってほしいが、直接語るのはためらわれる
- 「いきなり自分語りしたら変かな?」という意識があり、**質問という形式で会話の“布石”**を打つ。
- でも本音は、「自分の地元のことを話したい」「誰かに共感してほしい」。
◆ 相手への配慮よりも“話の流れ”を優先
- 相手が実家の話を嫌がる可能性までは考慮していない。
- 会話の流れやテンポ、自分が話しやすいようにだけ意識が向いている。
- 悪意はないけど、「その人にとっての地雷」に対するアンテナが低い。
◆ 「共通点探し」への強い欲求
- 実家・地元の話は、「生まれ育った環境」や「休暇の過ごし方」などで共通点が見つかりやすいと思って話題にしがち。
- でもこれは、その共通点に乗れる人には有効でも、乗れない人には苦痛。
こういうとき、心の中で「いや、そういうの聞いてくる時点で無神経だよ」と感じるのはとても自然な反応です。
相手は悪気がないかもしれませんが、それは「あなたが傷つかない理由」にはなりません。
もし今後もその人と関係が続くなら、「その話はあまりしたくない」とやんわり線を引いても問題ありません。
相手が気を悪くしても、それはあなたの責任ではなく、その人の配慮不足です。よければ、その場でどう返したか/どう対応してみたか、話してくれますか?
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ChatGPTを使うのは初めてではないけど、しばらく使わないうちにすごく進化してると感じました。
「よければどう対応したか話してくれますか?」とか!
そんで書き込むとちゃんと「それは典型的な〇〇です」とか教えてくれる。
同僚からの質問がなぜこんなに嫌なんだ自分…と、嫌悪感ながら罪悪感も感じて苦しい思いをずっとしてましたが、「悪気はないかもしれないけど相手の配慮不足」and「意図的に情報を引き出したいのかも」というChatGPTからの回答になんともすっきりしました。いろんなモヤモヤを、ChatGPTでクリアにしていく作業をどんどんやってみようかな。
そんで、これはいい!という回答はまた貼り付けて何度も読み返したい。 -
性・性うんざり
昨日、NHKの「地震のあとで」を見た。
原作は村上春樹。
ラブホテルが出てきたから嫌な予感…と思ったけど、やはり男女は抱き合った。
知り合ったばかりの2人だけど、女が誘った。
「あした地震くるかもしれないんだから、楽しいことしなきゃ」
楽しいこと・・
村上春樹と性描写は欠かせないというけども。
私は数年前から性の描写がひどく苦手になっている。
個人的な感慨といえばそうなんだけど。最近、「1Q84」を読み始めた。
早くも性生活の話が出てくる。
若い男性は10年上の女性とセフレ関係。
なかなか充実しているという。
年齢差のある・しかも女性が年増あたりの設定だと、エロく描かれたりしますね。
見下されたようなキャラで描かれるのも嫌だけど、「年上女の良さといえばエロ」みたいな描写も嫌と感じた。
SEX的なことを軸に語られるのが嫌なんだと思う。いわゆる「おじさん」という年代の人たちが世間に敷いた「性」の価値観。
私はその価値観の中で泳いだり溺れそうになったり、とにかく長くそこに浸かってたことを思い返した。
おじさんが設定した価値観は世間の価値観となり、その範囲内からいつはじかれるかという危機感をなぜか抱きつつ、屈辱にも思いつつ、「まだ範囲内にいる」と感じる瞬間にはほっとしたりもして。
今、50も迫ってきて、これからはその「範囲の外」なんだという自覚が湧いて、やっとだと。
やっと逃れられる。
勝手に値がつけられたり価値を下げられたりする世界から外れる。それは喜ばしいこと。
えっ、とっくに外れてるって?
・・そうやって年齢とか世間的な価値観に恥をかかされることもぐっと減っていくのだろう。
「若い」と言われた時代のほうがずっと、歳を重ねることに怯えていた。************************
「芸能人に会わせてあげるから連絡先教えて」
TV関係者という60前後の男と知り合い、胡散臭いと思いつつ友人と私は待ち合わせ場所に行った。最近の話です。
現れた男性はいきなりセクハラ全開で、しかもTV局に入れなかった。
その人は出禁になってるのか…?「気を取り直して食事でも行こう(裏話をそこでたっぷり話してあげる)」とのことだったけど、9割下ネタだった。
そのおじさんの風俗・性生活バナシ。
なぜこんな話を聞かされるのか…。
おそらく社外秘であろう裏話を聞かされるのも罪悪感が湧きそうだったので、まだよかったのかもしれない。
いや!全然よくないけど、フジのあの報告書のあとでこのおじさんは我が身を振り返らないんだろうかと、とにかく不思議だったですね。
初対面のおじさんから性交の話を聞かされる苦行。
その不快さを「おもしろい時間」に変換できるかも?なんて試みたりもする。
そうやって「乗り越える術」は身についてしまってて。不快だったらそれを表現しないと!(表現しない側が悪い)みたいな論調もXで見られるけど、それってなかなかできることじゃない。
「場の和」をなんとか維持しつつ話を違う方へ持っていく。
そのやり方がしみついてるから、不快さを表現するってのはかなりハードルが高い。そこを責められても難しいとしか言えない。
同じように思う人は多いと思う。おじさんからは、「誰でも良いから女性と繋がりたい」という飢えみたいなものを感じた。
私みたいな50間近の女でもつながろうとするのは、もうビョーキみたいでしたけどね。
まぁ、おじさんなりに「求めない方が失礼」というマナーを表面的に見せただけなのかも。
私の内面に関心を持つこともなく、ただ性の武勇伝を語っていた。
あの年代の男性は「性的に現役かどうか」がものすごい大事なことなのだろう。
そしてなぜか滲み出す、自分が女の価値を決める側・性的にジャッジする側という視点。
女=性的消費対象でしかない、と感じさせる語り。
人は・自分はどれくらいヤってるか?ばかり気にしてるような脳内(それを隠しもしない)
フジの報告書で明らかになった数々の訴えと、どこかつながる気がした。
そういう男性が世の価値を決めるような仕事につき、高給を得て社会的地位も高いという現実。TVの世界では長らく、その世代の男性中心で番組が作られていた。
そりゃ性・エロ・若さが重視されるよね。
それを受け取っていた自分は、その価値観にすごく影響を受けてしまってた。
「そんなんじゃ選ばれないよ」みたいな脅しは亡霊のようにうごめいて、「選ばれない恐怖」にまんまと突き動かされる自分が思い返された。
私も性中心に据えられたコンテンツを好んで享受してた時代はあったけど。
でもなんか、男性的なノリをいかに楽しめるか?というムードに乗りたかっただけの気もする。
その価値観の範囲で自分はどう振る舞うべきか。
男性が思う魅力・男性が思うエロ、そこに当てはまりに行く度胸こそなかったけど、「色気ない自分ですみません」みたいに自分を下げたことは何度もある。
自分の周りにも、「性のことばっかり」という男性は多くいた。
それは若さゆえにしょうがないことと思ってたけど、「ばっかりじゃない男性」も確かにいたわけで。
表面に出すか・出さないか、しかも女性に向けて卑猥さを発するかどうかの差は大きいと思う。
胸の内にしまっておけない男性は病的で依存症的なものを帯びてると思いますよね。
どんだけ追求しても足りない・足りなくて足りなくて手当たり次第…みたいな人は病気じゃないでしょうか。
犯罪スレスレのところにいる、危ない人と思う。関わらない方が身のため。
そういう人は、そうならざるをえない何か「ストレスの素」に人間性を侵食されてるんじゃないか。
多忙や孤独、過去のトラウマからくる過剰な承認欲求等々・・性やエロがこんなにも重要事項として位置づけられてきたのって、やっぱおかしい時代だったと思う。
性体験マウントみたいなのが若い女子にも広がったり、それがねじれて変態マウントみたいになってたり。その仕掛け人はあの時代のおじさんだったんじゃないのか?
あの盛り上がりの陰で被害者になったり屈辱を味わった人は相当多かったはずで、今やっとその陰に光が当てられて、陰の声を聞こうとする空気が盛り上がってきてる。
あの価値観に適応しようとしてきた自分を否定したい思いが今頃湧き上がるんですよね。
下ネタをうまくかわせる自分であろうとしたり。
年齢を重ねていく自分を自分から下げに行ったり。
そんな必要なかったのに!
という悔しさを携えて、しみついた価値観をいくらか脱ぎ捨てて生き直したい気持ち。
くだらないと心底思ってた世界を遠ざけることって、なんか勇気が必要だったじゃないですか。
50代を迎える今年からは、今の自分が感じる違和感や心地よさをもっと信じようと思って。
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頑張れないなりの
最近あんま頑張りたくないですね。
それでも生活しているかぎり「頑張り」を必要とされることはある。
私の今の生活では、夜勤と実家へ行くこと。
それ以外の仕事や家事は自分の中でルーティンとなっているので、自動でそこへ意識が向かう。
あと、不慣れな人と仕事をする前はそれなりに気合が入る。
前みたいなポジティブな気合じゃなく、「やだな〜(憂鬱)」とギリギリまで思ってるような。頑張ったあとは、「よーしよしよし…」と、ムツゴロウさんみたいに自分をいたわる。
誰も褒めてくれないもの。この「誰も褒めてくれない」というあたりを受け入れられたのは最近ですよ。
これまでは、「どうやったら自分は報われるか?」を考えたとき「誰か」という存在をあてにしていた。
それも間違いじゃないだろうけど、自分にそれは合わないと気づく。
自分をいたわってくれる誰か。
自分を真に理解してくれる誰か。
例えばすでに親しい彼女や彼ともっと特別な関係になるために、どう頑張ればいいのか。
そんな「頑張り」も疲れた。
ってか、そういう頑張りが報われる正しい行動なんて、ないんじゃないですかね。職場の同僚との関係が、なんだか半年くらいぎくしゃくしている(と、思ってた)。
その同僚は去年ご家族に不幸があって、私の誘いに乗り気じゃなくなっているのはわかる。
そのうち心の距離も離れてしまったような。
私が無神経な言動でもしてしまったんだろうか…とか思ったり。もっと若い頃ならそういうとき、ぐいぐい誘いをかけたり悩みを引き出そうとしていた。
年を重ねるにつれ様子見ができるようになったものの、もっと温かみのある何かできないものかと思いを巡らせてしまう。
特別に仲のいい人なのだから。
友達として、親友に近い存在として、「こうすべき」みたいなことが何かあるんじゃないか。でもそれもやめた。
「考える」という頑張りも疲れちゃいましたね。
「特別な相手のために何か」というのは、いま疲れやすくなっている自分が無理して考え抜くことでもないんじゃないか。
今の私ができるのは自分の傷や不快感に敏感になること。
昔のようにむやみに行動するような賭けに出て失望のリスクを負いたくない。
だから、友達のぎくしゃくを解消しようとしたり、気にかけすぎるのはやめた。
リスクは負わない。自分を守る。と!!
先日、その同僚友人とバッタリ会った。
「お茶しよう」と彼女から誘われた。
なんだこの奇跡。
彼女は彼女の事情で忙しくて、余裕がなかったらしい。
そんな話をじっくりできた。
これが「縁」なんでしょうかね。
頑張らなくても、通じ合えてる2人の道はいずれ重なる。とはいえ、「特別な存在」ということに期待をかけすぎない。
特別ってなんだろうか。
親友にしても彼氏にしても、母や家族に匹敵するような存在と出会うことに期待しすぎてた気がする。
しかも自分が期待する「像」に目の前の関係を当てはめようと、やたら頑張っていた。
そういうことも含めて、もう頑張る気力のない今。結婚とか親友とか、「特別な存在」を自分の世界に置くということ。
私にとってそれは、どうも自然じゃない。
一生の〇〇とか。
どうして人は(日本人は?)あんなに期待をかけるんだろう。
そんなリスクをなぜ負うのか。
この間、「おむすび」で橋本環奈演じる管理栄養士が、反抗的な患者に「(治療から逃げたら)一生後悔するよ」と言っていた。
「一生」ってなんて罪深い言葉だろう。
人が誰かに「あんた一生〇〇だよ」なんて脅していいのか。
一生寂しいよ・一生苦労するよ。
まぁ独身が長いと言われがちなことですが、誰の選択の先も未知じゃないか。
「心配なんだ」といういたわりとしても。
一緒にいて癒やされる人はいても、「わかってほしい」という期待が叶う人はいない。
と、最近思ってる。
自分の真の思いをとことん聞けるのは、この自分だけ。
だから自分対話アプリみたいなのできたらいいですよね。 -
個性と家族のお正月
ここ何年も年末年始には「泣く」「怒る」がつきまとってます。
1年のうちで最も感情のアップダウンが激しいシーズン。
早く正月気分よ消えろ…と2日3日にウジウジ思い、4日にはつきものが落ちたようにスッキリ。
ゲッターズ飯田さんの占いによると私は銀のイルカで、銀のイルカにとって正月は運気がよくないらしい。
同じ銀のイルカの同僚は去年末、便器に掃除用具を詰まらせて、正月早々呼んだ業者から高額な請求があったそう。泣いてました(なんだかな)なぜ私が年末年始に感情的になるかというと、あのシーズンの特別感を無理やり着させられてる気分になるからかも。
大掃除とか正月の諸々準備を誰がやるかといったらもう自分しかいなくて(母はそのあたりから思考的にも引退)、まぁそれは数年前から自分の仕事として割り切っている。
でもきょうだいが集まっておせちを囲むという和やかな場に、不穏な気分を投入してしまうのも私。
準備に頑張って、さらににこやかに過ごすことも頑張れと求められる気配に1日夕方には疲れてイラつく。
1年に一度のこの行事をうまくやり過ごせないのは、ひとえに私の至らなさにあるのだと。
その反省もまた苦しい。河合隼雄さんの本を最近読み返しました。
(家族関係を考える)
この中に興味深い家族の話がありました。
ある家族の父親はマイカーを買ってから、家族(妻、娘と息子)と週末に外食に出かけることを何よりの楽しみにしていた。
あるとき、中学生の娘が万引きをした。
なぜ万引きに走ったかの言語化は難しいようだけど、週末の外食から逃げるためというのはあったらしい。
たまには友達と週末を過ごしたかったし、家族と「話が合わない」と感じ始めていた。
そんな不満を抱えながら、父親が描く「一家団欒=家族の幸せ」像に沿おうとすることに限界が来たらしい。家族が揃って楽しい生活を送る。
河合隼雄「家族関係を考える」より
このことを単純に、表層的におしすすめてゆこうとすると、家族内の成員の誰かの個性を壊してしまうことが多い。いつも楽しくしていなくてはならないので、家庭内でもヨソユキの顔を強いられることになってしまう。(中略)
人間は真に自分の個性を生かそうとするかぎり、家族を持たない方がよい、ということになってくる。といって個性を守るかのように独身を貫いてきても、あるときどうしようもなく標準的な幸せを求めたくなったりもする。
一方、家族や子どもを持つことによって不幸が倍加されることもある。
家族というものがこちらに感じさせるパラドックスをもっとはっきり認識することが必要…と河合氏はこの章をまとめる。
このあたりを読んで、私が正月に感情的になるのは、まさに「楽しさを強いられる」ことへの抵抗なのだなと思ったんですよね。家族だけじゃなく、「個性の押し込め」を強いられてるようでつらくなること、日常のあちこちにあると思う。
芸能界でも「まさかあの人が」と思われるタイプのスキャンダルが発覚したりする。
そういう人は本来の「らしさ」を押し込めて仕事しすぎてストレスが強烈に溜まったんでしょうか。
「自由」という本来の持ち分を、個性として人生のどこかで発散させなきゃならない。
そうでなきゃ死がちらつくような危機感。
押し込めが常態化してる人にとって大袈裟な感慨でもないと思う。
「家族」と聞いてイメージさせる団欒・幸福・あたたかみのパワーってすごいですよね。
私は今年の正月、兄が「みんなで仲良く」と言ったところで悲しくなってしまった。
私と姉はここ数年顔を合わせてない状態で、そのことを懸念してのことだと思う。
「仲良く」って、何を持って成立するかわかんないです。
過去のあれこれを水に流すから、うまくやりましょうやとお年賀持って訪問すれば解決というものじゃない。
私は正直、時間の経過に任せるしかないと思ってますがね。
兄としては母にいつまでもきょうだいの不和を感じさせるのは親不孝と、胸の痛む思いなのでしょう。
でも振り返れば、姉や姉の家族も集まっての正月。
一見にぎやかで楽しげだったけど、その中で私はいつも逃げ出したいような気持ちだった。
それを押し込めて「楽しそうに」過ごすことが実はつらくて、押し込めきれないこともあったんですよね。
「楽しそうに」という表情をいくらか曇らせて淡々と過ごせそうなものですが、「なんかつまんなさそう」って姉に指摘されるのを恐れていた。存分にはしゃげたのも姪や甥が小さいうちだけ。
甥も高校生になるとほとんどしゃべらなくなり、きっと姉もそんな息子の感情を動かす思惑もあってお正月に連れてくるんだと思う。
私と姉でなんとか甥を笑わせようとする。
今思うと、「絵に描いたような家族団欒の正月」を押し付けられることに私はずっと怒ってた。
「楽しそう」以外の態度を許されないから。
何か吐露しようものなら、「正月なのに」と非難される。
年末年始が持つ特別パワーそのものを、いつしか恨めしく思うようになりましたよね・・私は昔っから家族で出かけて全身ではしゃぐ、みたいなことが苦手で、「楽しくないの?」と顔色うかがわれるのも嫌だった。
自分なりに楽しいと表現することもあったけど、気の乗らないことに乗せられることにいちいち激怒してた記憶。
「ほら、楽しかったでしょ。行ってよかったでしょ」と言われるのも特に嫌で、その嫌さ加減が年取ってもマイルドになってないことに改めて驚きましたね。
「自分の思い・気持ち」にすごくこだわりがあって、それを押し込められることに激しく抵抗する。
自分はそういう人間なんだなと。
「1人だけ楽しそうじゃない」と見られることを長らく反省してきましたが、楽しさや平和感を押し付ける方もいいかげん、己を振り返ってほしい。
自分の何かを満足させるために、人にすがっているんじゃないのかとか。
ちなみに兄の月は蟹(太陽は獅子)、私の月は獅子(太陽は蟹)。
やっぱ月が蟹だと家族団欒を求めるのかな。
いさかいに胸を痛める月蟹を思うと申し訳ない気もするけど、私は家族よりも「自分の楽しさ」がやっぱ大事になってしまう。
私は太陽蟹なので「家族のために」という体裁はちゃんと整えようとするんだけど、「ここまで頑張ったからあとは自室で過ごさせてほしい」という気持ちになっちゃいますね。
母は月蠍、姉は月山羊。
男性星座月の私だけ異質な存在になるのも致し方ないのかも。
姪は月天秤、甥は月射手。
この2人が無邪気なうちは楽しかったというのは本当そうだった。
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2024年も終わりに近づき
去年の1月1日、能登で地震が起きてから1年が経とうとしている。
関東でも揺れたし、異様な頻度の緊急地震速報。
あれから365日を過ごしてきたなんて、不思議です。
すごく早く感じる。年末年始はメンタル不安定なことが多いです。
家族で顔を合わせること。
何かとやるべきことが多くて不安になること。
なぜか1年の決着をつけようと自分を追い込むこと。
などなど、何やってんだか。今年も例外じゃない。
今日1日用事がないのをいいことに、布団でごろごろしてたら頭痛。
元気がないから寝てるのに、寝すぎるとさらに体調が悪くなる。
それでも掃除して、あちこち磨いて。
昨日は実家のあちこち整えた。
やるべきことはやっている。
なのに、気持ちは沈んでいく。
橋本環奈のプロフェッショナルを見て、少しだけ元気になった。
自分もああいうふうに心を上昇気流乗せっぱなしにできたんじゃないかと、過去を振り返ってみる。
できた気がしてくる。
が、30代後半と40代後半のあのがっくり感は、人生で予想もしてない沈み方で。
橋本環奈にもやがてそんな沈み期が訪れるのだろうか。さっき、叔父から電話があった。
私の母の弟。
母と電話したら、あまりの母の快活ぶりに驚いて嬉しくなって、私にも電話をくれたようだった。
叔父も80歳のわりに60代みたいな声で相当元気なんだけど、88歳の母のポジティブさに度肝を抜かれたようだった。
確かに母はここ数年で明るさが上向いている。
物忘れもできないことも確実に増えてるんだけど、笑い声と食欲が上向き。
そんなことってあるんだな。
その快活さに私の献身が関係してるんだとしたら、ありがたいし幸福と思う。
今年はそんなことを何度も思った1年だった。母は5月に初めて30度に到達した日に熱中症で救急搬送された。
あのときすごく動揺して、近所の人にも心配されて、気が張った数週間を過ごして。
それは2024年最大の出来事だったけど、あの出来事を機に「母の環境をもっと良くしていけたら」という「チーム母」ともいうべき私と兄とケアマネさんとヘルパーさんのタッグが強まって、結果すごく良い環境がもたらされた。
母は一人暮らししてるし、私も週1回の帰宅だし。
今までこの状態を「介護」と言うのは恐れ多い気がしてたけど、2024年は「介護にあたっている」という自覚をちゃんと持つことで、私自身の意識も大きく変わりました。
2022〜2023年はもっとすごくメンタルが不安定で、「介護にあたる自分」の像がなかなか描けず苦しかった。
自分の人生の半分以上が介護で塗りつぶされる気がして、怖かったのもある。
母の生活の多くを私の脳内でコーディネートしなくてはならない、そういう日が迫ることを恐れていた。
2024年は母の救急搬送を境に私のメンタリティーも体力も向上した年でした。
そう、私もちょっと健康になったんですよね。
ってか2023年ごろのすべての落ち込みはなんだったんだろう。
ああ、これが更年期か…と思う体力の低下と苦しさがあった去年だったけど、更年期っぽさは消えたかも?軽くはなりました。
思うに、コロナ禍で体力が激しく低下してたんでしょうね。
2024年は2駅以上歩くとか、そういうのも頑張りました。いくらか元気になった私は秋にnoteを再開したりしましたが、ここのブログと違って「書くこと」に異様に神経を使うようになり、今またストップしています。
自分の「好きなこと」を思い返したとき、どれもこれも人様にアピールできるようなものなどなく、どれも1人でひっそりと楽しむようなことだった。
その「1人」の時間に孤独を思うこともなく、人から見れば子どもみたいな時間だったとしても、確かに充実していた。
その孤独を、偶然誰かと分かち合えることがあって、友達みたいになって。
お互いどれだけ孤独な時間を過ごしてきたか、その少しの見せ合いっこがよかった。
見せ合わなければ孤独だとも気づかなかった。
でもこっそり打ち明けて、またすぐしまう。
また1人きりで時間をつぶすことを楽しむ。
それでよかったのに。
下手に交流の場を持つと、自分のダメさが急に感じられたりする。
そして、自分を平均的なキャラクターに無理やり作り替えようとする。
そんなことをしてたらメンタルの危機になりかけました。ゆめぼしのこのブログを一番熱く更新していたとき、ある面から見たら恥ずかしいようなことだったかもしれないけど、ある面から見たら相当充実していた。
でも充実のさなかに一瞬でも「恥」を感じたら、あの熱さは取り戻せない(気がして)
ここ数年はそんな恥を抱えすぎたかもです。
来年いくらかでも熱さを取り戻せたらと思う。
やっぱ橋本環奈からヒント何か得たのか?自分・・
それにしてもマブダチ・山本舞香の美しさには息を呑みましたね。
ちょっと(かなり)好きになったかも。
「舐められたくないじゃないっすか」みたいなこと言ってた(かっこよかった)20代の女子に憧れを抱く自分。
それめっちゃいいじゃんと、高校時代の友人が最近言ってくれた。
たった1人だけの言葉で何かを取り戻せるって、今もあるんだなと。
だから来年は、「取り戻す」みたいなことを掲げたいですね。
Tverで、あの伝説の「すいか」やってんですよね!
私は見逃してしまってて、でも見た人みんな「おもしろかった」「名作」と言う。
私もまだ2話しか見てないけど、おもしろい!!
こういうわくわくを少しずつ取り戻していきたいです。
いつも読んでくださる方、本当にありがとうございます!!
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性と欲を思ったゆうべ
なんでクリスマスに源田の不倫のニュースを見なきゃいけないんだ。
源田のことそんな見てたわけじゃないのに、「源田も!?」とか思っちゃったよ。
妻が元乃木坂と。
SNSに流れてくる情報見てたら、「やりそうじゃないか」とも思った。
正直、不倫報道でいちいちがっかりさせられるのに疲れている。
文春はどういう目的でこのニュースを報じたんだろう。
「不倫する人を真に断罪するため」に片っ端から情報をアップしているのか。
それとも「関心持つ人が多そうだから収益になる」と見込んだのか。
源田を引きずり下ろしたかった?(なんのため?)
もしくは、まさかのまさかで「みんなやってるだろう」という許容ムーブメントを地味に企んでの不倫情報乱発なのだろうか。
目的を知りたい・目的を。
情報にただ踊らされるというのは、もう疲れた。
一方で、深刻そうな性加害疑惑報道も目にした。
「欲」ってなんなのだ。
願望通り遂行したい「欲」ってあれこれあるけども。
食欲・睡眠欲etc.
性欲ってそんななのか?特に強者の欲ってどんなことになってるのでしょう。
人の境界線をぶち破ってもいいと思ってるのか。
それが許されると思ってる人たちがこの世に存在して、「人気者」として仕事をこなしたりする。怖すぎる。
価値観がアップデートできてない人特有の変態性なのか支配性なのか、本当は依存症という病気にくくられるんじゃないのか。
だとしても。もうみんな、やりたすぎだろうと思う。
性欲が下降の一途を辿っている自分なので、つくづくそう思う。
昭和・平成って「性行為至上主義」みたいに煽られてた時代だった。
ドラマも映画も庶民の恋愛シーンでも。
その余波というか影響が今もかなり残っている。
性のあたりで極めた人になりたすぎる業界もあるんだろうな。
芸能界もそうだし、スポーツ界にも一部偏見の目を向けてしまう。
日本のスキャンダラスな著名人や選手はみな、顔が欲でパンパンになってるように見える。
週刊誌も結局、性欲でパンパンなんじゃないですかね。
ヤってない人を暗に侮蔑する雰囲気を作っといて、結構ヤってる人をたたく土壌を提供する。
興味あるのはいつだって性の過剰さ。
クリスマスが過剰に煽られるのにも、性のたくらみを感じてる。
聖夜だけに(ごめんなさい)
そういう煽りのせいかはわからないけど、「性でぐいぐいしてもいい」みたいな勘違いを抱く男性がまだ多いらしい。
マッチングアプリを使ってみようかと随分前に思ったことあったけど、「初めて会った人から車内で迫られた」「カラオケで膝枕された」「大体ヤリモクとか」
「そういう怖いこと乗り越えて今の夫に出会えました」とか聞いても、いやいやいや。乗り越えるかよ!と思って使用はやめた。自分に向いてない。
「よく知らない男性」ってそれなりに恐怖ですよ。
しかもアプリ使って女性と会いたいという普通の願望を抱いた人の「初対面の相手との距離感」が「性のあたりでぐいぐい気味なこともある」、という可能性を受け入れられない。
関係をそれなりに築いた人にはそれなりの安心感がある。
同僚とか、相手の勤め先を知るくらいの関係。
というのも、「社会的な立場を把握している」という状態は身のためでもあると思う。
100%オープンで男性といきなり向き合うってのはやっぱり怖いとこがあって。
恐怖が前提にあるから、浮気とかにフットワーク軽くなれない。
「性」にまつわることってなんだかんだ大事で、どういう心持ちであれば傷つかなくて済むのかって、わりといつも考えている。
結局「自分」なんだよという自己責任論で対処するべき領域なのか。
だとしたら、神経使うことが多すぎる。
安心して愛情を育んでいきたいだけなんですよね。
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ミッションクリア体質(気を利かせるということ)
前回の記事で、男性が時代のダブルバインド(=矛盾した2つのメッセージが発せられること)で混乱してるのではないかということ書いたけど、「結局どう生きるべきなの?」という矛盾を抱えてるのは女性もまたそうだと思った。
社会進出していこう・生活をちゃんとしていこう、さらに愛する人を守ろう。
どれも頑張るしかないと感じるから、スーパーな底力を絞り出す、そして疲弊、みたいな。「気を利かせる」ということをすっごく叩き込まれました。
それは新入社員のころ。
でも思い返せば、大学1年のときから「気が利かないバイトの子」とずっと年配の女性に言われてましたね。
おばちゃんの態度ってどれもすんごく意地悪だったからか、大学生の私は「自分はそんな悪くない」と思えて反発心丸出しにしてた。就職するとそれは通用しない。
「こんなに気が利かない新人は初めて」「お母さんの顔が見てみたい」などなど、明らかなモラハラを浴びせられて。
「そのおかげで」、なんて言うのも癪だけど、1年も経てば「気を利かせること」がわかってきて、次第に「気づくこと」がミッションみたいになる。
「こんなとこまで気づいた自分」に誇りを持てたり、「すごーい」なんて言われてニヤついたり。
前回の記事で、男性がこぼした茶をさっと拭くのが喜びとか書いたけど、ミッション拾った快感なんだとも思う。
どこにいてもミッションセンサーを働かす。
くつろげない。
就職して2年目ごろ、学生時代の友人に、「すごく気が利くようになったよね。だって大学の時は…」と言われた。
途中で言葉を飲み込んだのも気になったし、「利くようになった」という言い回しも引っかかった。
「なった」ということは、気が利かないとずっと思われてたということか。
しかも大学時代から。
私がおばちゃんに反発して向上心など持ちようもなかったあのころ、友人からすでにジャッジされていた。
それはなかなかショックでした。彼女は大学時代、体育会系の部活だったんですよね。
だから学生時代から「気を利かせること」が叩き込まれてたんだと思う。
私の鈍感さが気になるほどに。25歳ごろ、それまでの内勤から外勤へ異動に。
建設業だったので、外勤というのはあのプレハブの現場みたいなとこでの事務。
男性9割。おじさん8割。全員年上。
いや〜楽だった。
過剰な気遣いなどしなくても、「よく気がつくねぇ」と感心される。
女性は私1人なので、ルールもわりと自由に決められる。
「私はお茶汲みとか、しませんので」と暗に表明しても怒る人はいない。
「気を利かせる」の熱量を半分に下げても、誰も何も言わない。
みんな自分のやるべきことをやっていて、「それでいい」という世界。
気を利かせなくて怒るのは、女性なんだろうか?***************************
この時期になると「名もなき家事」の話題で熱くもなりますが、「気がつくほうがやることになる」という、その気づくほうのモヤモヤが一向に晴れないまま話題は終わる。
どうしてもよく気づく人というのはいて、ミッションクリア体質になってんだと思う。
気遣いを叩き込まれたんでしょうよ。
ある意味トラウマレベルに。
そんな女性・社会人は多いんじゃないか。
だって、気が利かない=ダメな女という烙印が押されるから。
誰が押すのか?
これがはっきりしないんだけど、なんでしょうね、「その烙印だけは押されたくない」というあの恐怖。
ダメゾンビにつかまってダメ沼に沈められないよう、とにかくミッションを高スピードでクリアしていく。
よく女はマルチタスクだとか言われるけど、「あれこれ気づいて処理しなきゃ!」にやたら駆り立てられてるだけじゃないですかね。
一定の時間内に終えないと「気が利かない」「できない」と思われかねないから。気が利かないと何が怖いかって・・・
ひとつは「だから結婚できなかったんだ」と思われることなのかな。
いつもこういうとこに帰結するのもいいかげん嫌なんだけどさ。
人として・女として、どう振る舞えば「ダメ」と見做されなくなるか、そのライン探りにアンテナを張りすぎたかもしれない。
