日記・お知らせ・人間
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個性と家族のお正月
ここ何年も年末年始には「泣く」「怒る」がつきまとってます。
1年のうちで最も感情のアップダウンが激しいシーズン。
早く正月気分よ消えろ…と2日3日にウジウジ思い、4日にはつきものが落ちたようにスッキリ。
ゲッターズ飯田さんの占いによると私は銀のイルカで、銀のイルカにとって正月は運気がよくないらしい。
同じ銀のイルカの同僚は去年末、便器に掃除用具を詰まらせて、正月早々呼んだ業者から高額な請求があったそう。泣いてました(なんだかな)なぜ私が年末年始に感情的になるかというと、あのシーズンの特別感を無理やり着させられてる気分になるからかも。
大掃除とか正月の諸々準備を誰がやるかといったらもう自分しかいなくて(母はそのあたりから思考的にも引退)、まぁそれは数年前から自分の仕事として割り切っている。
でもきょうだいが集まっておせちを囲むという和やかな場に、不穏な気分を投入してしまうのも私。
準備に頑張って、さらににこやかに過ごすことも頑張れと求められる気配に1日夕方には疲れてイラつく。
1年に一度のこの行事をうまくやり過ごせないのは、ひとえに私の至らなさにあるのだと。
その反省もまた苦しい。河合隼雄さんの本を最近読み返しました。
(家族関係を考える)
この中に興味深い家族の話がありました。
ある家族の父親はマイカーを買ってから、家族(妻、娘と息子)と週末に外食に出かけることを何よりの楽しみにしていた。
あるとき、中学生の娘が万引きをした。
なぜ万引きに走ったかの言語化は難しいようだけど、週末の外食から逃げるためというのはあったらしい。
たまには友達と週末を過ごしたかったし、家族と「話が合わない」と感じ始めていた。
そんな不満を抱えながら、父親が描く「一家団欒=家族の幸せ」像に沿おうとすることに限界が来たらしい。家族が揃って楽しい生活を送る。
河合隼雄「家族関係を考える」より
このことを単純に、表層的におしすすめてゆこうとすると、家族内の成員の誰かの個性を壊してしまうことが多い。いつも楽しくしていなくてはならないので、家庭内でもヨソユキの顔を強いられることになってしまう。(中略)
人間は真に自分の個性を生かそうとするかぎり、家族を持たない方がよい、ということになってくる。といって個性を守るかのように独身を貫いてきても、あるときどうしようもなく標準的な幸せを求めたくなったりもする。
一方、家族や子どもを持つことによって不幸が倍加されることもある。
家族というものがこちらに感じさせるパラドックスをもっとはっきり認識することが必要…と河合氏はこの章をまとめる。
このあたりを読んで、私が正月に感情的になるのは、まさに「楽しさを強いられる」ことへの抵抗なのだなと思ったんですよね。家族だけじゃなく、「個性の押し込め」を強いられてるようでつらくなること、日常のあちこちにあると思う。
芸能界でも「まさかあの人が」と思われるタイプのスキャンダルが発覚したりする。
そういう人は本来の「らしさ」を押し込めて仕事しすぎてストレスが強烈に溜まったんでしょうか。
「自由」という本来の持ち分を、個性として人生のどこかで発散させなきゃならない。
そうでなきゃ死がちらつくような危機感。
押し込めが常態化してる人にとって大袈裟な感慨でもないと思う。
「家族」と聞いてイメージさせる団欒・幸福・あたたかみのパワーってすごいですよね。
私は今年の正月、兄が「みんなで仲良く」と言ったところで悲しくなってしまった。
私と姉はここ数年顔を合わせてない状態で、そのことを懸念してのことだと思う。
「仲良く」って、何を持って成立するかわかんないです。
過去のあれこれを水に流すから、うまくやりましょうやとお年賀持って訪問すれば解決というものじゃない。
私は正直、時間の経過に任せるしかないと思ってますがね。
兄としては母にいつまでもきょうだいの不和を感じさせるのは親不孝と、胸の痛む思いなのでしょう。
でも振り返れば、姉や姉の家族も集まっての正月。
一見にぎやかで楽しげだったけど、その中で私はいつも逃げ出したいような気持ちだった。
それを押し込めて「楽しそうに」過ごすことが実はつらくて、押し込めきれないこともあったんですよね。
「楽しそうに」という表情をいくらか曇らせて淡々と過ごせそうなものですが、「なんかつまんなさそう」って姉に指摘されるのを恐れていた。存分にはしゃげたのも姪や甥が小さいうちだけ。
甥も高校生になるとほとんどしゃべらなくなり、きっと姉もそんな息子の感情を動かす思惑もあってお正月に連れてくるんだと思う。
私と姉でなんとか甥を笑わせようとする。
今思うと、「絵に描いたような家族団欒の正月」を押し付けられることに私はずっと怒ってた。
「楽しそう」以外の態度を許されないから。
何か吐露しようものなら、「正月なのに」と非難される。
年末年始が持つ特別パワーそのものを、いつしか恨めしく思うようになりましたよね・・私は昔っから家族で出かけて全身ではしゃぐ、みたいなことが苦手で、「楽しくないの?」と顔色うかがわれるのも嫌だった。
自分なりに楽しいと表現することもあったけど、気の乗らないことに乗せられることにいちいち激怒してた記憶。
「ほら、楽しかったでしょ。行ってよかったでしょ」と言われるのも特に嫌で、その嫌さ加減が年取ってもマイルドになってないことに改めて驚きましたね。
「自分の思い・気持ち」にすごくこだわりがあって、それを押し込められることに激しく抵抗する。
自分はそういう人間なんだなと。
「1人だけ楽しそうじゃない」と見られることを長らく反省してきましたが、楽しさや平和感を押し付ける方もいいかげん、己を振り返ってほしい。
自分の何かを満足させるために、人にすがっているんじゃないのかとか。
ちなみに兄の月は蟹(太陽は獅子)、私の月は獅子(太陽は蟹)。
やっぱ月が蟹だと家族団欒を求めるのかな。
いさかいに胸を痛める月蟹を思うと申し訳ない気もするけど、私は家族よりも「自分の楽しさ」がやっぱ大事になってしまう。
私は太陽蟹なので「家族のために」という体裁はちゃんと整えようとするんだけど、「ここまで頑張ったからあとは自室で過ごさせてほしい」という気持ちになっちゃいますね。
母は月蠍、姉は月山羊。
男性星座月の私だけ異質な存在になるのも致し方ないのかも。
姪は月天秤、甥は月射手。
この2人が無邪気なうちは楽しかったというのは本当そうだった。
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2024年も終わりに近づき
去年の1月1日、能登で地震が起きてから1年が経とうとしている。
関東でも揺れたし、異様な頻度の緊急地震速報。
あれから365日を過ごしてきたなんて、不思議です。
すごく早く感じる。年末年始はメンタル不安定なことが多いです。
家族で顔を合わせること。
何かとやるべきことが多くて不安になること。
なぜか1年の決着をつけようと自分を追い込むこと。
などなど、何やってんだか。今年も例外じゃない。
今日1日用事がないのをいいことに、布団でごろごろしてたら頭痛。
元気がないから寝てるのに、寝すぎるとさらに体調が悪くなる。
それでも掃除して、あちこち磨いて。
昨日は実家のあちこち整えた。
やるべきことはやっている。
なのに、気持ちは沈んでいく。
橋本環奈のプロフェッショナルを見て、少しだけ元気になった。
自分もああいうふうに心を上昇気流乗せっぱなしにできたんじゃないかと、過去を振り返ってみる。
できた気がしてくる。
が、30代後半と40代後半のあのがっくり感は、人生で予想もしてない沈み方で。
橋本環奈にもやがてそんな沈み期が訪れるのだろうか。さっき、叔父から電話があった。
私の母の弟。
母と電話したら、あまりの母の快活ぶりに驚いて嬉しくなって、私にも電話をくれたようだった。
叔父も80歳のわりに60代みたいな声で相当元気なんだけど、88歳の母のポジティブさに度肝を抜かれたようだった。
確かに母はここ数年で明るさが上向いている。
物忘れもできないことも確実に増えてるんだけど、笑い声と食欲が上向き。
そんなことってあるんだな。
その快活さに私の献身が関係してるんだとしたら、ありがたいし幸福と思う。
今年はそんなことを何度も思った1年だった。母は5月に初めて30度に到達した日に熱中症で救急搬送された。
あのときすごく動揺して、近所の人にも心配されて、気が張った数週間を過ごして。
それは2024年最大の出来事だったけど、あの出来事を機に「母の環境をもっと良くしていけたら」という「チーム母」ともいうべき私と兄とケアマネさんとヘルパーさんのタッグが強まって、結果すごく良い環境がもたらされた。
母は一人暮らししてるし、私も週1回の帰宅だし。
今までこの状態を「介護」と言うのは恐れ多い気がしてたけど、2024年は「介護にあたっている」という自覚をちゃんと持つことで、私自身の意識も大きく変わりました。
2022〜2023年はもっとすごくメンタルが不安定で、「介護にあたる自分」の像がなかなか描けず苦しかった。
自分の人生の半分以上が介護で塗りつぶされる気がして、怖かったのもある。
母の生活の多くを私の脳内でコーディネートしなくてはならない、そういう日が迫ることを恐れていた。
2024年は母の救急搬送を境に私のメンタリティーも体力も向上した年でした。
そう、私もちょっと健康になったんですよね。
ってか2023年ごろのすべての落ち込みはなんだったんだろう。
ああ、これが更年期か…と思う体力の低下と苦しさがあった去年だったけど、更年期っぽさは消えたかも?軽くはなりました。
思うに、コロナ禍で体力が激しく低下してたんでしょうね。
2024年は2駅以上歩くとか、そういうのも頑張りました。いくらか元気になった私は秋にnoteを再開したりしましたが、ここのブログと違って「書くこと」に異様に神経を使うようになり、今またストップしています。
自分の「好きなこと」を思い返したとき、どれもこれも人様にアピールできるようなものなどなく、どれも1人でひっそりと楽しむようなことだった。
その「1人」の時間に孤独を思うこともなく、人から見れば子どもみたいな時間だったとしても、確かに充実していた。
その孤独を、偶然誰かと分かち合えることがあって、友達みたいになって。
お互いどれだけ孤独な時間を過ごしてきたか、その少しの見せ合いっこがよかった。
見せ合わなければ孤独だとも気づかなかった。
でもこっそり打ち明けて、またすぐしまう。
また1人きりで時間をつぶすことを楽しむ。
それでよかったのに。
下手に交流の場を持つと、自分のダメさが急に感じられたりする。
そして、自分を平均的なキャラクターに無理やり作り替えようとする。
そんなことをしてたらメンタルの危機になりかけました。ゆめぼしのこのブログを一番熱く更新していたとき、ある面から見たら恥ずかしいようなことだったかもしれないけど、ある面から見たら相当充実していた。
でも充実のさなかに一瞬でも「恥」を感じたら、あの熱さは取り戻せない(気がして)
ここ数年はそんな恥を抱えすぎたかもです。
来年いくらかでも熱さを取り戻せたらと思う。
やっぱ橋本環奈からヒント何か得たのか?自分・・
それにしてもマブダチ・山本舞香の美しさには息を呑みましたね。
ちょっと(かなり)好きになったかも。
「舐められたくないじゃないっすか」みたいなこと言ってた(かっこよかった)20代の女子に憧れを抱く自分。
それめっちゃいいじゃんと、高校時代の友人が最近言ってくれた。
たった1人だけの言葉で何かを取り戻せるって、今もあるんだなと。
だから来年は、「取り戻す」みたいなことを掲げたいですね。
Tverで、あの伝説の「すいか」やってんですよね!
私は見逃してしまってて、でも見た人みんな「おもしろかった」「名作」と言う。
私もまだ2話しか見てないけど、おもしろい!!
こういうわくわくを少しずつ取り戻していきたいです。
いつも読んでくださる方、本当にありがとうございます!!
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性と欲を思ったゆうべ
なんでクリスマスに源田の不倫のニュースを見なきゃいけないんだ。
源田のことそんな見てたわけじゃないのに、「源田も!?」とか思っちゃったよ。
妻が元乃木坂と。
SNSに流れてくる情報見てたら、「やりそうじゃないか」とも思った。
正直、不倫報道でいちいちがっかりさせられるのに疲れている。
文春はどういう目的でこのニュースを報じたんだろう。
「不倫する人を真に断罪するため」に片っ端から情報をアップしているのか。
それとも「関心持つ人が多そうだから収益になる」と見込んだのか。
源田を引きずり下ろしたかった?(なんのため?)
もしくは、まさかのまさかで「みんなやってるだろう」という許容ムーブメントを地味に企んでの不倫情報乱発なのだろうか。
目的を知りたい・目的を。
情報にただ踊らされるというのは、もう疲れた。
一方で、深刻そうな性加害疑惑報道も目にした。
「欲」ってなんなのだ。
願望通り遂行したい「欲」ってあれこれあるけども。
食欲・睡眠欲etc.
性欲ってそんななのか?特に強者の欲ってどんなことになってるのでしょう。
人の境界線をぶち破ってもいいと思ってるのか。
それが許されると思ってる人たちがこの世に存在して、「人気者」として仕事をこなしたりする。怖すぎる。
価値観がアップデートできてない人特有の変態性なのか支配性なのか、本当は依存症という病気にくくられるんじゃないのか。
だとしても。もうみんな、やりたすぎだろうと思う。
性欲が下降の一途を辿っている自分なので、つくづくそう思う。
昭和・平成って「性行為至上主義」みたいに煽られてた時代だった。
ドラマも映画も庶民の恋愛シーンでも。
その余波というか影響が今もかなり残っている。
性のあたりで極めた人になりたすぎる業界もあるんだろうな。
芸能界もそうだし、スポーツ界にも一部偏見の目を向けてしまう。
日本のスキャンダラスな著名人や選手はみな、顔が欲でパンパンになってるように見える。
週刊誌も結局、性欲でパンパンなんじゃないですかね。
ヤってない人を暗に侮蔑する雰囲気を作っといて、結構ヤってる人をたたく土壌を提供する。
興味あるのはいつだって性の過剰さ。
クリスマスが過剰に煽られるのにも、性のたくらみを感じてる。
聖夜だけに(ごめんなさい)
そういう煽りのせいかはわからないけど、「性でぐいぐいしてもいい」みたいな勘違いを抱く男性がまだ多いらしい。
マッチングアプリを使ってみようかと随分前に思ったことあったけど、「初めて会った人から車内で迫られた」「カラオケで膝枕された」「大体ヤリモクとか」
「そういう怖いこと乗り越えて今の夫に出会えました」とか聞いても、いやいやいや。乗り越えるかよ!と思って使用はやめた。自分に向いてない。
「よく知らない男性」ってそれなりに恐怖ですよ。
しかもアプリ使って女性と会いたいという普通の願望を抱いた人の「初対面の相手との距離感」が「性のあたりでぐいぐい気味なこともある」、という可能性を受け入れられない。
関係をそれなりに築いた人にはそれなりの安心感がある。
同僚とか、相手の勤め先を知るくらいの関係。
というのも、「社会的な立場を把握している」という状態は身のためでもあると思う。
100%オープンで男性といきなり向き合うってのはやっぱり怖いとこがあって。
恐怖が前提にあるから、浮気とかにフットワーク軽くなれない。
「性」にまつわることってなんだかんだ大事で、どういう心持ちであれば傷つかなくて済むのかって、わりといつも考えている。
結局「自分」なんだよという自己責任論で対処するべき領域なのか。
だとしたら、神経使うことが多すぎる。
安心して愛情を育んでいきたいだけなんですよね。
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ミッションクリア体質(気を利かせるということ)
前回の記事で、男性が時代のダブルバインド(=矛盾した2つのメッセージが発せられること)で混乱してるのではないかということ書いたけど、「結局どう生きるべきなの?」という矛盾を抱えてるのは女性もまたそうだと思った。
社会進出していこう・生活をちゃんとしていこう、さらに愛する人を守ろう。
どれも頑張るしかないと感じるから、スーパーな底力を絞り出す、そして疲弊、みたいな。「気を利かせる」ということをすっごく叩き込まれました。
それは新入社員のころ。
でも思い返せば、大学1年のときから「気が利かないバイトの子」とずっと年配の女性に言われてましたね。
おばちゃんの態度ってどれもすんごく意地悪だったからか、大学生の私は「自分はそんな悪くない」と思えて反発心丸出しにしてた。就職するとそれは通用しない。
「こんなに気が利かない新人は初めて」「お母さんの顔が見てみたい」などなど、明らかなモラハラを浴びせられて。
「そのおかげで」、なんて言うのも癪だけど、1年も経てば「気を利かせること」がわかってきて、次第に「気づくこと」がミッションみたいになる。
「こんなとこまで気づいた自分」に誇りを持てたり、「すごーい」なんて言われてニヤついたり。
前回の記事で、男性がこぼした茶をさっと拭くのが喜びとか書いたけど、ミッション拾った快感なんだとも思う。
どこにいてもミッションセンサーを働かす。
くつろげない。
就職して2年目ごろ、学生時代の友人に、「すごく気が利くようになったよね。だって大学の時は…」と言われた。
途中で言葉を飲み込んだのも気になったし、「利くようになった」という言い回しも引っかかった。
「なった」ということは、気が利かないとずっと思われてたということか。
しかも大学時代から。
私がおばちゃんに反発して向上心など持ちようもなかったあのころ、友人からすでにジャッジされていた。
それはなかなかショックでした。彼女は大学時代、体育会系の部活だったんですよね。
だから学生時代から「気を利かせること」が叩き込まれてたんだと思う。
私の鈍感さが気になるほどに。25歳ごろ、それまでの内勤から外勤へ異動に。
建設業だったので、外勤というのはあのプレハブの現場みたいなとこでの事務。
男性9割。おじさん8割。全員年上。
いや〜楽だった。
過剰な気遣いなどしなくても、「よく気がつくねぇ」と感心される。
女性は私1人なので、ルールもわりと自由に決められる。
「私はお茶汲みとか、しませんので」と暗に表明しても怒る人はいない。
「気を利かせる」の熱量を半分に下げても、誰も何も言わない。
みんな自分のやるべきことをやっていて、「それでいい」という世界。
気を利かせなくて怒るのは、女性なんだろうか?***************************
この時期になると「名もなき家事」の話題で熱くもなりますが、「気がつくほうがやることになる」という、その気づくほうのモヤモヤが一向に晴れないまま話題は終わる。
どうしてもよく気づく人というのはいて、ミッションクリア体質になってんだと思う。
気遣いを叩き込まれたんでしょうよ。
ある意味トラウマレベルに。
そんな女性・社会人は多いんじゃないか。
だって、気が利かない=ダメな女という烙印が押されるから。
誰が押すのか?
これがはっきりしないんだけど、なんでしょうね、「その烙印だけは押されたくない」というあの恐怖。
ダメゾンビにつかまってダメ沼に沈められないよう、とにかくミッションを高スピードでクリアしていく。
よく女はマルチタスクだとか言われるけど、「あれこれ気づいて処理しなきゃ!」にやたら駆り立てられてるだけじゃないですかね。
一定の時間内に終えないと「気が利かない」「できない」と思われかねないから。気が利かないと何が怖いかって・・・
ひとつは「だから結婚できなかったんだ」と思われることなのかな。
いつもこういうとこに帰結するのもいいかげん嫌なんだけどさ。
人として・女として、どう振る舞えば「ダメ」と見做されなくなるか、そのライン探りにアンテナを張りすぎたかもしれない。
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生活と対等(誰かと住むという想像から)
「レジ袋の大ください」
私はそう言う率が高い。底が平らな弁当用バッグを持ってないこともあるし、惣菜もくるんだビニールの端から汁がこぼれてた率高い。
そしてエコバッグに汚れが付着。
洗濯しても落ちなかったりする。
バッグだってそんな安くない。
100円均一のでいいじゃんという声もあるだろうけど、だったらレジ袋を買う。
家に帰ったら同居人がいたとして。
「なんでエコバッグ使わないの!」「レジ袋買うかね!」
責められたら嫌だなぁ〜という想像をした。
なぜかそのシルエットは女性だった。女性友人のエコバッグ率は高い。
そりゃそうだろうとは思う。
お金もったいないし、環境のことあるし。
でも私は自分が買った袋をゴミ袋として使っている。
この世に売られた袋があるかぎり、買う自分が環境汚染の主というわけじゃないはずで。
ってか、なぜこんなに言い訳してるのか。
私の周りには「ちゃんとした女性」が多くいて、あの子に眉ひそめられちゃうかな…なんてことを時々思うから。ただ、男性が同居人として。
その人がレジ袋ぼんぼん使う人だったら、「ちょっとさぁ」くらい言いそうな気がする。
「ゴミ袋として使ってるよ」と言われても、なぜか言い訳に聞こえてイラつく想像までする。
女って「言いたくなる」性分なのかな。
どっちかがきちんとしてて、ルーズタイプが怒られる。
生活ってそういうもの、という固定観念が奥底にしみついてるのか。
母親の真似をしてるのか。
「そういうもの」なのか。「シーツを洗う頻度」についての会話はいつも気まずい。
「週1洗わないと気持ち悪くない?」と既婚女性が言う。
私は数週間でも気持ち悪くない(あえて数週間とボカす)。
私もそれなりに「生活ちゃんとしてる人」と思ってるのだけど、友人宅に遊びに行くと、自分がルーズ人間のように感じられてしまう。
みんな水道周りとか黒ずんでないし、トイレのタオルまでふかふかしてる。
私が来る前にすごい掃除をした、という雰囲気もない。
「ちゃんとしてる」の基準がきっとはるかに高いんだ。
帰宅して、風呂場ドアの隙間汚れを慌てて拭く私。
自分は結構やれてる派と思うのに、女性と同居したら「いい加減なタイプ」と思われるのだろう。女性同士というのは、一見相手を全肯定する温かな関係を育める。
でも旅行先でピリピリするのは、生活のギャップを見るからでしょうね。
部屋があんなにきれいな友人が、バッグから全てを出して自分の周りに置いて途方に暮れてたりする。
そして風呂が長い。化粧が長い。
女子だなーと思う。
私はこの「女子だなー」という感じが実はちょっと苦手。
時々ならかわいいけど、生活となるとストレスになりそう。
男性のルーズさは許せる(程度はあるけど)。
男性が宿泊先の部屋で途方に暮れてたり、風呂が長いということはない。
「さ、部屋出るか」と立ち上がったとき、男性がテーブルにこぼしたお茶をさっと拭いたりする自分に喜びすら覚える。
それを彼に見られてなくても、そういうことをやりたい自分。
これ、女性のこぼしたお茶を私が拭くってことはできない。
いや、湯呑みが倒れてこぼれたのなら拭くけど、ちょっとした水気を拭くってのは嫌味じゃないですかね。
私は「対等」をいつだって交際関係の理想に掲げてきた。
男性と交際を深めると、なんだかんだ男性の運命性を優先しながら生きていくことに、どこか怯えていた。
女性友人との関係性はおおむね対等。
ただ、それも「距離保ってるから」という部分は大いにあるわけです。
私は「近しくて対等」という関係を誰かと築きたいと望むのに、それは無理なんじゃないかと最近すごく思ってて。******************************
女性との関係に亀裂が入るのって、恋愛の破綻より怖いかも。
そんで、相手の上に立とうとすると大体関係はおかしくなる。
それを互いによくわかっているので「対等であること」、そのバランス調整に細心の注意を払う。
相手女性のことを「だらしない・ダメだな」と思うより、自分が「ダメ」の側にいたほうがまし、そんなことを意識はよくわかってる気がしますよね。
「下」に耐えられるのもいっときだけど。男性と関係が近しくなると、全体的に男性が「上」みたいになるんだとして。
細々とした場面では「上に立たせてくれる」と感じる。
それが私は心地よい。
「しょうがねぇなぁ、男ってのは」というベースを心に抱かせてくれる存在はありがたい。
そんでこっそり「頼もし〜」と安心する(オープンにしてけよという話だけど)
兄がいるからこういう感受性なのかもしれない。
もう10年以上も前になるドラマ版「モテキ」が好きで見てましたが、第2話のタイトルが「深夜高速〜上に乗るか 下に寝るか〜」
夜の主導権争い描写が見事で、満島ひかりのかわいらしさが世に放たれた神回と思ってますがね、男女ってああいうことしょっちゅうやっている。
「マウント取り合い」が許し合える関係を、実は私は望んでたのかも。
対等を理想に掲げといて、その実、「私の権利が通ること」を求める。
とか言ってもね。
男性相手にマウント取るっていうのは、「それでやっと対等」と感じられるから。
私は男性が恋愛対象。
何が好きって男性とつながると社会につながる感覚をダイレクトに味わえるからかも。
時に翼を授かったように自分の役割が明確になることもあり、「しょうがないわね」でやってあげてる自分はなかなか悪くない。
とはいえ、「やれよ…」と思うこともたくさんある。
男としてはもしかしたら、最近の世間からの圧にダブルバインド混乱状態なのかなと思ったりもして。
「気がつく」ひとつ取っても、「ここまでは気づかなかった」ということは無数にある。
そこまでやらなきゃなの?と聞けば、「そうだよ!」と気づいた側は思わず言っちゃうだろうけど、正直「こんな隅々まで気がつく自分」でもありたい。私はね。
さらなる理想を言えば、「隅々まで気がつく女性」に気づいてほしい。
そんで、「フォローしてもらってんだな…」と噛み締めてほしいんだな。
そういう願望まで汲み取ってもらう期待は期待しすぎとわかるし、でも理想はやっぱ汲み取ってほしかったり、やってほしかったりだし。
ただ現実として、自分のことだけじゃなく同居人の動線まで想像してくださいよという願いは切実であって。
女性相手だと「隅々まで気がつく存在」とかになりたくないんですよ。
そんな嫌味な人になりたくない。
相手をそういう存在にするのも気が引ける。
私はこの先、女性と住むという未来もあるかもなぁと思わなくもなかったけど、やっぱハードル高そう。
上に立たないことを心がけつつ支え合うって難しいなぁと。
「年老いた親」だったらまだしもで。
これも立場がしょっちゅう逆転しますからね。「親」と、世話する娘とで。
「対等」っていう理想、そんなよくもないのかな?という気づき。
わかんないですけどね。
私の未成熟な部分が抵抗してるだけかもしれない。女が尽くすから男は鈍感ルーズでよいとか、そういう話ではないです。
ただ、このへんの煮詰まりをもっとクリアにしたい。
ダブルバインド状態がもっとクリアにされて、いい意味での対等さが生活に自然に浸透していったらいいと思う。
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40代後半でよかったと思うこと<性格編>
トラブルを起こさなくなってよかった(瞬発力低下)
かつてはカッとなったら、瞬時に怒りの言葉を相手にぶつけてたものです。
特にLINEで即反論メッセージを送る。
あの速さは、今振り返ると我ながらすごいと思う。
そりゃ、頭を抱えるほど後悔したことは何度もあります。
だけど頭抱えてる間にまた長文LINEが来たりして、ぐわっと怒りの言葉を紡ぎ出して返信。
そんなことを45までやってました。
46に差し掛かって、途端に丸くなったんですよね。というのは、カッとなっても言葉が浮かばないのです。
不快なモヤモヤで脳内を占められるのに、数分経つと「なんだっけ?」となる。
ちょっとしたババァ状態ですが、瞬発力が低下したのでしょう。
よくアンガーマネジメントで、怒りが湧いたら6秒数えるみたいのありますが、あれを自然にやってる感じでしょうか。
「ま、いっか」となる。
それを続けてると、こっちの怒りや正当性を表明しないことで、仲違いなどのトラブルを回避できることのほうがよっぽどいいと思えるようになるんですよね。
むしろ、昔はなぜあんなに不快感や正当性を主張してたんだろうと思う。
そうじゃないと生き残れないような危機感があったんだろうけど、それがなんだったかも覚えてない。
何の変化も起こそうとしなかったことによる「何も起こらなさ」の平和感を心地よく感じられるようになりました。人間関係の悩みが減ってよかった(感度の低下)
苦手だなぁと思う人がこれでも激減したのです。
昔は「関わる人ほとんど苦手!」と思う日のほうが多かった。
同僚たちが楽しそうに笑ってるのもなんか嫌。
自分のミスに誰かため息ついてるんじゃないかとか。
あの人が何も話さないのは私のせいかもしれない、などなど全身アンテナ状態でしたが、40後半になると途端にどうでもよくなった。コロナ禍に私語を控えるようお達しが出て、その「話さない日々」の心地よさに気付いたからというのもありそう。
みんな話さないというあの静寂の期間は、本来やるべき仕事に集中できたし、仕事が終わったら最低限の挨拶だけして帰る。
苦手な人とエレベーターが一緒になっても「話さない」を貫けたし、「お先にどうぞ」と、密回避を装って同乗を避けることもできた。
そんな日々を過ごすうち、「誰にどう思われてるか?」というあの痛々しい感度も鈍麻していったというかですね。
自分が気にしなくなったら、誰にも嫌われてないような気がするから不思議。
「いい人でいなくちゃ」という気負いがなくなるのは、大きなストレス一個減ったということなんでしょうかね。お金を使わなくなってよかった
(体力・好奇心の低下)あくまで私の場合ですが、30代はしょっちゅうCDを買ってたし、雑誌も本も買っていた。
「仕事帰りにどこか寄る」というのを日々楽しみにしてて、それがストレス発散だったんですよね。
先日、同い年の友人とも話してましたが、ルミネ10%オフの期間なんか閉店までうろつく日を何度も繰り返して、へとへとになるまで欲しいものを探したりしてたよねと。
今じゃ「早く帰りたい」、頭に浮かぶのはそれだけ。
パートナーやペットが待ってるわけじゃありません。もう、お財布出すのが面倒なのです。
お金がない、とかいう前に「欲しい→買う!」と心が動くことに疲れてしまった。
無印とかソニプラ寄って何にも欲しいと思わない自分に愕然とするぐらいなら帰りますね。好奇心の低下。
そんで休日に限って眠い・ダルい・どこかしらの鈍痛。体力低下。
推しへファンレターまで書いてたのに、今じゃその人の音源も聴かなくなった。
「よかった」どころか病んでるんじゃないかという話ですが、何が日常にもたらされたかというと「落ち着き」ですかね。
「あれやりたい」とかの持ち手カードが昔20枚ぐらいあったとしたら、今は7枚、いや5枚もあったかな。
いっぱい抱えても頭が混乱するだけなので、生活や自分自身がシンプルになりつつあると感じます。物欲が減る。
(とはいえ毎月の収支は赤字。なんでだ?)「経験」から判断できるようになってよかった
(真の自立)ここまで「老化」をただ前向きに捉えただけという感じもしますが、40も後半になれば「経験」を生かせるようになってきたなぁと、感慨深くもなります。
特に人間関係ですね。
距離感には特に気をつけるようになりました。
近いから親しくなるとも限らないし、会わないから疎遠になるわけじゃないことを知った。
あと終電間際の酔っ払いにはかなり敏感になりました。
やばいな、と察していち早く隣の車両に逃げたら、数分後にあとからあとから逃げてくるとか、そんな能力は身につきましたね。恋愛・結婚の価値観もずいぶん変わりました。
かつての私は恋愛至上主義傾向でしたが、自分の魂胆に自分で気づかないようにしていた。ただそれだけだった気もします。
自分1人で生きることにどこか手抜きをしたかった。
全力で頑張っても上昇できる気がしないので、上昇していきそうな人ばかり好きになってましたよね。
そんで一心同体をもくろむ。アブない女でした。
ただ、「全力で頑張っても上昇できる気がしない」
そう思わせる時代に生きているということ。自己責任じゃないだろう。
堂々こんな責任転嫁もできるようになるもので。何より「無理しすぎないほうがよい」ということを経験で感じられるようになったのは大きい。
いい意味で「自分中心」になれました。
高齢母の介護生活に入って、そりゃ母親のことを考える時間は増えたけど、子どもも夫もいない自分が誰かの生活に責任持つことを体感できた。
これが自立なのか。
末っ子の自分がどれだけ人の脳みそ借りて生きようとしてたかも思い返され、そんな反省ができるようにもなった。自分は非正規で独身。加えて神経質で未来の不安ばかり抱えてきたのに、「ま、いっか」と思える大人になってたというのはちょっと想像してませんでしたね。
「40後半でよかったこと」をこれだけ連ねられて本当よかった。