日記・お知らせ・人間
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修復の2024年
年が明けました。
昨日の地震は怖かったです。
北陸にご実家があったり、暮らしているという何人かを思い浮かべています。私の甥は高岡市に住んでいて、「大丈夫」と安否確認ができたものの、地図を見ると海がとても近く見えるので気が気じゃなかった。
今は津波警報も解除されたのでほっとしています。
大きな揺れにはずっと見舞われているでしょうけど。私にとって年末年始はいつからか深刻なシーズンになってしまいました。
なんか心がえぐられるドラマが集中して、涙目になる出来事が起きやすい。
「悲しい」という感情が湧きやすくなる。
だけど救われる言葉をかけられることもあり、感動の涙目にもなる。
年末って私だけじゃなく誰しもが少しドラマチックになるんだろうか。2023年は本当に頑張った。
頑張りすぎてしまった。
だけど私は根気強くないので、「もうダメかも」と早めにヘルプを求めるタイプではありますがね。
それでも踏ん張らなきゃならないことがある。
誰しも人生でそんな日々を過ごすことがあると思います。2024年はあんま頑張らない、と決めたとしても、きっとそうはいかない。
そこで2024年の大目標。
「修復する」
自分を修復する、関係を修復する・・
いろいろあるんだけど、その他の小目標もいくつか掲げてみます。1・勝手な期待や妄想で自分をやたら傷つけない
2・自分を笑いのネタにしない
3・家族=協力者と思う。好き嫌いなどの感情に振り回されない
4・他人軸で生きない。自分がどうしたいか
5・自分を馬鹿にする人は許さない1は昔っからの自分の悪癖です。
「悲しい」と思うほとんどは、自分が生んだ妄想によるもの。
「きっと〇〇だ」「こう思われてるはず」
そんな不安で自分を締め付けて苦しくする。
幼い頃に怖くて不安でしょうがないことがなんかあったんでしょうね。
結果、「あ、大丈夫だった」ということがほとんどなのに、その結果が判明するまでずーっと自分を不穏な妄想で傷つける。
これはもう癖なんだけど、そうはならない心へとゆっくり修復していきたいです。
2・自分を笑いのネタにしない
これは数年前から複数人での会合を避けたこととつながる。
「自分のことを話す」となったとき、人はどんな話題を提供するのでしょう。
友達が何の話をしても「ふんふん」と聞くことはできるけど、「聞いてよ、うちの職場でさ…」といういきなりの愚痴で切り出す、ということが自分にはできない。
「自分の日常は充実している」という話も、らしくないと思っちゃう。
なぜか「こんなダメな自分」を日常から切り取って披露する。
笑ってほしいのかもしれない。
誰かのジャッジを期待しているのかもしれない。
そのどっちの反応があっても少し嬉しくなる。
でも1日の終わりにひどく後悔することが増えた。
前までは恋愛の失敗をすぐネタにした。
2024年はそんなことはやめよう。
恋愛の失敗も喜びも大事なことは自分だけの胸にしまう。3、年末年始といえば家族。
涙目のほとんどのゆえんが家族なのであって。
2023年はおおむね家族関係は穏やかだったのに、2024年のしょっぱなに「だから家族は嫌なんだ」とうっかり言ってしまった。
この3年ほどは「家族」という観念的なものにすごく抵抗していた。
「家族なんだから」「きょうだいで仲良く」
意味わかんないという反抗心をむき出しにしていた。
それまで家族のピエロでいた反動と思う。
だけど、きょうだいの人格にいちいち振り回されない方がいいのかもしれない。
親が高齢となり、その衰えをフォローする日々となった今、きょうだいがいるなら協力し合わないととてもやっていけない。
特に私は歳の離れた末っ子。きょうだいの頼もしさに支えられてきたことを改めて自覚した。
その支えを振りほどいて1人で頑張るなんてのは命を削ることに等しい。
きょうだいの人格を見つめすぎず、「協力し合う」第一優先で2024年はやってみようと思う。
ひび割れた関係もいくらかは修復できるかもしれない。
家族・きょうだい間で感情をさらけ出すと、修復不可能なとこまで行きかねない危機感も感じた2023年でした。4も自分の長らくの癖。他人軸になってしまうこと。
末っ子でピエロと書いたけど、自分がどう振る舞えば家族を笑顔にできるか?が常に胸にあったですね。
年上のきょうだいは自分にとって怖い一面もあり、どうすれば機嫌を損ねず、しかも評価されるかばかり考えていた。
この癖は社会人としての自分にもしみついているし、恋愛でもそう。
「どうしたら相手の負担にならずに」「いい人でいられるか」とか相手の顔色ばかり見て、この数年の社会的な自分はまったく自分じゃなかった気がする。
自分の本心を露出させることは、誰か・何かに多大な迷惑をかける気がしてひた隠す、ということも多かった。
そんなことを頑張っていったい何が手に入ったかといえば、入ってないに等しい。
頑張るというのは、ある意味自分を隠すこと。
本当の自分以上の自分のふり、努力してそうなれた気がしても、たったいっときの輝き。
かかとのひび割れを素敵な靴下で隠すようなもの。
私のかかとに関してはほぼ修復不可能なんだけど、「ひび割れが痛くて本当は歩けないんだ」と言える自分は取り戻したい。
5は、まぁ「許さない」というのも物騒な話だけど、人を下に見てくるような物言いの人には露骨に嫌悪感示してもいいかなと。
それが職場の仲間とかきょうだいとか、協力しなきゃならない人なら、距離をとりつつ目的に意識を集中させようと思うけど、そうじゃない知り合いに対しては「もう帰るね」ってさっさと席を立つくらい潔くあろうかなと。
そんな嫌なやつももうあんま近くにいないけど、例えば年齢で人の行動を恥だとか無理とか言ってくるような人とはしゃべりたくない。
「そんな歳なのにぃ〜?」とか「もうあたしらこんな歳だよ?」とか、そう言ってくる人は28のときも35のときにもいた。いつだっている。
人間の老いを恥だとか行動制限の理由にする人に巻き込まれたくない。
そういう人の声をまともに聞くこともないのに、こっそり自分の物差しに採用してたようなこともあった。
そしてさらに自分に小さな傷をつけまくる。
修復なんてする必要もないかもしれない。
欠けたままの自分でもいい、本当はそう思えたらいいのかな。
今年もよろしくお願いします。PR -
まちの話
今朝のモーニングショーで、大宮がかなりアツいという話が出ていた。
なんでも最新の住みたい街ランキングで、大宮が第3位に入ったと。
1位が横浜、2位吉祥寺。
そんで3位が大宮?
4位が恵比寿で??
にわかに信じがたい気もするし、いまさら?という気もする。私は2000年あたり、大宮に出勤してました。
会社帰りにルミネに寄るのが楽しみで、時々そごうにも行く。
友達へのプレゼントを丸井で探したり、CDといえばアルシェ。本はルミネ内の書店も好きだったけど、ロフト内の本屋のほうがでかかった。
1人で南銀座に行くことはなかったけど、あのへんの裏通りにちょっとしたカフェだかお菓子屋さんがあった気もする。
友達や先輩とはロフト1階のカフェに入ったり、そごう裏の予備校エリア内にひっそりとある洋食屋やバルみたいなとこ行くのも楽しかった。
帰社後の時間をめいっぱい楽しんだ記憶ばっかりです。浦和もあのころよく行ってましたよ。
仲良くなった子が浦和生まれで、その子曰く「大宮よりずっといいお店ありまっせ!」と。
駅を降りれば伊勢丹とコルソにどーんと出迎えられ、あれが浦和独特の閉鎖性という気もするけど、コルソの裏へ出ればレッズファン御用達の居酒屋が明るいうちから賑わしい。でも浦和の子は「まだまだ」と言い、その裏の道路を横断。
すぐ石畳の小路が現れ、サムシングというおしゃれなイタリアンを指し、「ここ入りましょう」と。
あそこでよくサングリア飲んだなぁ〜。あのころ、付近にパインズホテルも登場し、当時はレッズ選手の宿泊ホテルだったらしい。
長谷部とかも泊まったのかな…
そのパインズホテルでもしょっちゅうご飯食べました。
パインズの近くにまたおいしいケーキ屋ができたり、当時は珍しいフレッシュネスバーガーに行くために、わざわざ休日に車で浦和に行ったりしてたっけ。
私にとって「食の浦和・買い物の大宮」でした。その後、東京に住むようになってからほとんど大宮・浦和に行くことはなくなったけど、浦和パルコが出来た時にわざわざ行ってみたりしました。
しかしこのパルコ問題。
津田沼パルコ閉店で地域の方がすごく惜しんでいるニュースを見たけれど、どんなパルコだったんだろうな。
しかし、その衰退の流れも想像がつくような気がした。浦和のパルコには何度か行ったけど、ちょっとがっかりしたんだな。
いや、渋谷パルコ以外のパルコにあのパルコらしさを見出せたことはほとんどない。
いま上野にあるのはparcoya。
「ヤ」ってなに?!!その渋谷パルコもリニューアルしてからどうも入りにくい。
リッチな結界が全面に張られてしまったかのよう。
往時を知る年代は来ていらねぇって??旧パルコにもそれなりに立ち入れないエリアはあった。
1Fとかはちょっとリッチな結界張られてましたね。けど地下に行けばパルコブックセンターやBカンパニーがあったし、私にとって渋谷パルコといえばツモリチサト・Zucca・Ne-net・ビュルデサボン。奥の奥まで行けば、望んでたような新店ができてたりする。
時たま連絡通路でパルコ2に渡り、マニアックな店内を眺めたあとはでかいタルトケーキ屋で休憩(ラ・メゾンだっけ)
しかし新渋谷パルコにはこのほとんどがない!
Zuccaはあるようだけど、それ以外全消滅。なんたって「パルコといえばSmith」というあのおしゃれ文房具屋すらないなんて!
なのに浦和や上野のパルコにはそのSmithが忠実に1Fの目立つところに展開されている(涙)
そこしか見どころがない(涙)池袋パルコには久しく行ってないけど、あそこにもパルコ2があり、マニアックさと独特のチープさが引き継がれてた気がする。
池袋は西武の街とも言えるからね。頑張れ池袋パルコ!!その昔、わが地元の春日部ロビンソンがなくなった喪失感は今も抱えているわけで。
あの広々としたアフタヌーンティールームさえあれば他に何もいらなかった。
でも地元以外の人にとったら、「なんもねぇ」という百貨店だっただろうか。
私はお正月の初詣後に必ずロビンソンに行って、ラルフローレンでちょっとお高いセール品を買うのが楽しかった。年1回しか行ってなかったけど・・。
年1回ほどの愛着なんて簡単に引き剥がされてしまうんだな。ロビンソンという名が取れ、「西武」に変わったあたりから嫌な予感はしてたよね。
ってか西武大丈夫なのか…
池袋西武もヨドバシカメラに変わるとかって話ありました。
大反対していた豊島区長も最近お亡くなりになり…そういえば池袋も、サンシャイン近くがちょっとした赤坂みたいになってて驚いたっけ。
その中心にある大きな劇場は、最近の渋谷や銀座でよく見かけるような華やか建築物。
変わっていくよね〜。住みたい街ランキング5位は新宿で、「新宿回帰」と呼ばれる現象だそう。
でもわかる。
渋谷は東急まで取り壊されてまた超高層ビルになるらしいし、その斜め向かいの渋谷ジュンク堂も閉店したそうじゃないですか。
銀座線がえらく乗りにくくなったものの、その脇にある新しいビルではトイレを借りたことしかない。
渋谷スカイでも行ってみたいけど2000円かかるのか…
一体どんな人に来てほしい意思があるんだろうこの街は。その点、新宿は「昔と変わらない」と思える光景がそこかしこにあってほっとできますね。
汚い・チャラいと目を背けていた大ガードあたり・歌舞伎町すら愛しく思えるほど。
ただ、駅の名物とも言える古ビルが次々と解体されている。
「新宿の目」もなくなるんだっけ…楽しい街ってどういうんだろうな。
適度にぶらぶら巡れて、疲れたらお気に入りのカフェに並ばずに入って何時間でもいられるような?
それが理想としても土日だと居場所探しジプシーが街にあふれる。20年前くらいの吉祥寺って本当楽しかった。あのころの二子玉川も。
適度な穴場感やオリジナリティーもあったし、それこそ吉祥寺パルコはパルコとして成立してたはず。ほんの数年前に行ったときは、なんかガランとしてたけど…それでも街は今も大混雑してるんだろうな。
人が求める魅力とマッチしてる街ということか。無印さえ入れておけば。
カルディさえ入れておけば。少し前なら中川政七頼み。
ディーンアンドデルーカ頼み。
フランフラン頼み。どこに行ってもある柿安。
スタバはお高くとまったままの君臨。
別にドトールでよくない?むしろ良い。
マックでもいい?全然いい。
並ぶくらいならサイゼでいい。
そのサイゼもいま行列作ってますね!
デニーズもロイホも高いけど、いつでも入れる。入れてくだせぇ。今、まち歩きって大変かもですね。
言語化できない庶民のニーズが公園に浮遊してる気がする。路上飲みがやけに楽しそうです。
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マウンティングとは
先日、久々にマウンティングを感じた。
しかも2回。1回目は、前から相性の悪かった女。
2回目は、前から相性の悪かった男。相性というか私の被害者意識というか、忍耐と寛容が足りないだけというのはある。
何とか穏便に振る舞ったけど、マウンターたちは私の憤怒に感づいたかもしれない。なぜ上に立ってくるんだろうと考えたんですよ。
「上に立たなきゃならないほどの自己評価(低)」がゆえんじゃないかと薄々は感じるが。
A「こいつの上になら立てそう」(みくびる系)
B「こいつの上には立ってやりたい」(攻撃系)相性の悪い女は私に対してBの感情があることはわかる。
相性の悪い男はAっぽいけども、私というより「女」「同僚」をどうも下に見ていて、それは周りも感じるところ。
せっかく頭がいい人なのに、そのアピールがダイレクトすぎて辟易する。頭がいいのに自己評価が低いのかもしれない。
知識をひけらかしたり、人の欠点を突いたりすることでいっとき満足感を得て、そのとき相手がどんな気持ちか想像が及ばないのだろう。
というのは、自分だってそいつの気持ちがわかるわけで。相性の悪い女もまた優秀ゆえに先回りやお節介が過ぎるとこがあり、「私がやっておいた」という足跡を残しまくる。
「私の準備のおかげでスムーズ」感を出してくるのが嫌すぎて。同僚はそこで、ありがとーって言える人たちなんだよなぁ。
言えば関係が良好になるのに、「誰も頼んでねーし!!」という本音を押しとどめつつ「ありが…」と中途半端にモゴつくのがやっと。前なんて「不要です」と断ったこともある。
彼女は引くどころか、ますますエスカレートした。
すでに優秀なのに、ダイレクトに優秀と認められたい人の自己評価もわかる気はするけどさ。マウンティングとは言え、向かってくるものはなんであれ関心なのだろうか。コミュニケーションのお誘いというか。
そう思うと、かわいいと思えるか…もしれない。思えないかもだけど。猫2匹飼ってると、しょっちゅうマウンティングし合ってますね。
負けた方は憮然としてその場を去り、健気にグルーミングしてる。
メス猫なんかは特に「負けてねーぜ」という気高さをすぐ取り戻す。
これだな!!(なにが)マウンティングが嫌すぎて、マウンティングを引き寄せてた気もする。
心の奥底で被マウントを望む私。コミュニケーションを欲してたということか?さみしすぎだな。 -
いい人はうまくいかない
30代以降の私は、「いい人になること」を真面目に目指してましたね。
本当は「いい人に思われたい」のくせに頑張るから、心がどっと疲れる。
実家暮らししてた当時は家族に八つ当たりして。
今思えば、外で猫かぶってた分、家で「自分らしさ」を取り戻そうとしてたんだな。40代になると、いい人っぽさも板につく。
例えばみんなでワイワイ話してて、前だったら人を笑かそうとするワードを投下したり、何かしら「言う」ってことをやっていた。
それが年取ってから、「ただニコニコする」で終わって、一度も前に出なかった自分を褒めるようになった。あー今日はいい人でいられた!
・・かどうかは疑問だけど、その場に何の影響ももたらさない自分っていいじゃんと思ったり。
私は昔、20代とかだけど、バイトのみんなでカラオケ行ったら、みんなよりちょっと多く歌うやつだった。
「私のこと飛ばしていいよ〜」と言う人の順番にまんまと乗っかってましたね。
それこそが「私らしさ」と思う。
そんな私を「なんだこいつ?」と思った友もいなかった…と思うけど、いたとしてもきっと相性の悪い人で、そんなとこまで気を回さないぜと思うくらいあのころは強気だった。でも30代の自分は、そういう自分をわざわざ振り返って、この出しゃばりめが!と頭を抱えて猛反省。
過去の自分に猛烈なダメ出しを繰り返した。
振り返ると、女性9割のとこに転職して、みんなマジいい人ですねって女性とたくさん接するうちに変わったのかも。私もそろそろ大人にならなきゃと。
とにかく気が利く人になりたかった。どうぞ〜って全部譲る長女っぽく。でもこの譲るってやつ。
いまだにうまくできない。
というのも私はせっかちなので、「いえいえ、あなたこそお先にどうぞ」「いえいえいえ」って1往復半以上もやってらんないですね。ってか譲ってんのに「いえいえ」って。
正解は何だろう?いい人は我を通さない人とか、自分後回しとか、そういうもんだというムードがあって、私もそういう人になんなくちゃと頑張ってはみたものの、たとえ一時的にうまくいっても、抑え込んだものはどこかで噴き出すんですよ。しかもタチ悪く。
悪口1か月言わなかった分、ヤバめの本音がそのうち出ちゃって、あわわ…となったり。それがまた疲れるので、いよいよ1人でいることを決めたコロナ禍。
しかしそれはそれで会話に飢えが出てくるので、たまに口開くとやっぱりタチ悪いのが噴き出てくる。私は何のためにいい人になろうとしたか。
これには恋愛・結婚も大きく関わってくる。
しかしいい人を目指すと、恋愛がうまくいかない。 -
2022年と中年
あけましておめでとうございます。
去年は、体の重い1年でした。
2021年まではフットワークも軽く行動的だった。
コツをつかむまで多少時間はかかるようになったけど、頑張ればそのうち実る…そう自分を信じてたはずが、2022年はまず頑張れない。
体が重い、頭が重い、心が重い。病院もあちこち行きました。
どこへ行っても自律神経と言われる。
おおむね健康とのことだけど、ウォーキングすれば疲労、ストレッチすれば腰痛。漢方ジプシーの1年でもありました。
胃に安中散、動悸に半夏厚朴湯、不安に加味逍遙散。「それ更年期だよ」と強めに言ってくる人をことごとく避けた。うるせーよ。
しかし血液数値的には更年期レベルじゃないらしい。
老眼特有の仕草も出てきたけど、老眼じゃないらしい。
でもついに、鼻上のシワは刻まれてしまった。今読んでる本も河合隼雄。
タイトルはずばり「中年危機」
更年期と老眼に抵抗はしても、中年は受け入れようと思う。若人がなぜ頑張るかというと、中年期以降の安定・安泰のためと思う。
中年までに結婚したり出産したり家を買ったり犬を飼ったりして、テラスで平和にバーベキューすることを夢見るのかな。「中年危機」では一見何もかも順調だったのに鬱っぽくなったり、死を考えだしたりする中年の話が出てくる。
河合先生は「適応がよすぎたことが問題」と書く。何事もうまく事を運ぶために頑張る。
努力の先に凪があると信じて時に過剰に適応して。
でも中年期にこそ波乱が巻き起こる。
若いときと違うのは、時間の流れが遅いこと。
すべてが鈍すぎるから問題とじっくり向き合うことになる。ファースト鈍くさ期がまた絶望で、ここで死がちらつく人も多いと思う。これまでのように対処できない自分を責める日々はあまりにもつらい。
でも頑張れないのは中年の良いところでもあり、放置してもなんとかなるもんだという新発見を得たのも2022年。
あと誰かを頼ることの大事さ。昨年は母のことでケアマネさんとヘルパーさんにとてもお世話になりました。
母を病院に連れていけば、看護師さんや薬剤師さんが「あなた1人で頑張りすぎてない?」と声をかけてくれる。
どうやら今それがスタンダードみたいですね。家族が背負い込む時代ではないと。順調さにブレーキがかかる。その元年が中年ということだけど、体が重くなったことにも意味があったみたい。
鈍くて重くてできなくて。悪あがきが本やオンラインに救いを求めた。
頑張りが全部成果につながってたら、私は人にも努力を求め続けてただろう。特に私はこの10年本当自由人で責任とも無縁だったしね。そのツケが一気に来たとも言えるし、パワーが今までの半分以下でもどうにかなるんだと、冬にやっと思えた。
2021年は恋の嵐が吹き荒れたけど、2022年は猫が死んだり親がプレ介護状態になったりと、あんま恋愛どころではなかった。同時進行ができないのも中年の特徴と思う。
しかし中年の鈍さにも良い面がある。
2022年のテーマは「男」だったです。
家族含め、男性との関係性がとても良くなった。2023年はいよいよ「女」と向き合うことになりそう。特に年上の女性。
私はもう正義感や比較からも降りつつある。腰回りがもっと丸くなってもいいんだ。
今年もよろしくお願いします。
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今日は牡牛座の新月
牡牛座といえば「ナチュラル」「心地よさ」という感じ。
雑誌なら「暮しの手帖」とか「天然生活」みたいな。
ただのナチュラル以上に「上質さ」もある。「暮しの手帖」も「天然生活」も毎月買ってた時期ありましたよ。
でもあるときからやめた。
「ナチュラルな暮らし」がどんどんメジャーになってったからかも。
お手頃だったはずの木綿シャツが、2万以上の高級白シャツになった頃。
「質素に慎ましく」なんか建前で、「上質な家具・道具に満ちた部屋」が「ナチュラル」に置き換わってしまったころ。私は昔、吉祥寺にしょっちゅう行ってましたが、何より吉祥寺がそういうふうに変わってった記憶。
アジアン色の染物まとったお姉さんがたくさんいた街が、ネストローブな生成りの街になった。
内気な白じゃなくて自信のある白。
そういう人は自由が丘にとどまってると思ってたけど、いつしか二子玉川や代官山へ。
青山や中目黒の「いまさら?」という待ち構え感はちょっと無視するけど、なんたって渋谷・原宿・表参道の「それでも消えない個性」には救われますね。目に入る何もかもがいまだガチャガチャ。
特に原宿で見かけるファッションは表も裏通りも楽しい。唯一無二!
しかし渋谷はどんどん変わっていくね。昔の渋谷が消えそう。私は今でも旧渋谷パルコにこだわってるんだ。
あの素晴らしいパルコブックセンターをもう一度!!私にとって牡牛座は2室。
ここには数年前からT天王星も入ってますが、「経済」も大幅に見直しましたね。
厚切りジェイソンの本を2冊も買っちゃった。
でも細かい節約ってなかなかできない。
自販機でなるべく飲み物買わないとか、コンビニを多用しないとか。できない。
「なんとなくコンビニ寄る」というある種しょーもなさで生活のバランスとってることもあるんだ…今回の新月は「日食」でもあります。ドラゴンヘッドのポイントが近い。
天王星と太陽月が合なので「意外!」とか「解体!」ってことが誰しもにあるんでしょうか。
それらは魚座火星とセクスタイル。
前は新月図を読んでたんだけど最近はやめました。
脳内でうっすら予想くらいするけど、文字化した途端に「その道」が閉ざされる感じがあって。
特に今回は天王星が絡んでますがね。天王星に関することを予想すると大体「予想外!」のほうにいきますよ。。
天王星を分かった気になると「そうはいかねぇ」という道がいつも示される。
「あるある!」と思うとないし、「ねーだろ」と思うとぶっ壊されたり。
でも私は天王星嫌いじゃないです。(←こういうこと言うと「やっぱ怖っ」ってことがあったりする)大体が宇宙を前にして「予想」というのは本来無理なんだと思う。
占いやめろよって話ですが、そうそう、チャットアプリのほうはやめました。
予想のこともそうだけど、とにかく頑張らないことにしたのです。
少し前まで、部屋でぼーっとしてるなら時間の有効活用で働こうと思ってたけど、それは罪悪感に基づいてたものだった。そりゃ頑張れば収入はアップする。でも疲れ切ってるので銀行口座見ても満足感ないんですよ。
「だろうね」という感じ。あんなに働いたんだもの。
そうまでしなきゃ生活困るか?と問われたら、そんなこともない。
「今のままじゃだめだ」という焦りやネガティブさを収入で埋めようとしてた。
「よく頑張った!」って42くらいまでは爽快感があったけど、最近じゃだめですよ。
特に手術してから・ダブルワーク始めてから。くたくたっす。
あとコロナ禍は見事に種々の「扉」が閉ざされた。
なんかやろうと思っても軒並みクローズしちゃいましたよね。
まだ新規参入の勇気も湧かない。
楽器何か始めたいと思っても、1週間で薄れたり。「自分を愛する」ということを丹念にやろうと、この新月期につくづく思いました。
そうはいっても、どうすべきかずっとよくわかんなかった。
「インナーチャイルドに優しく声かけてあげて」とか「何かにつけ”自分頑張ったね”といたわる」とか、自分にはどこかハマらなかった日々。
ところが最近、とあるブログと書籍を見つけた。そこに大いなる心当たりがあったわけで。
私の家族はちょっといろいろあったんだけど、あんま大したことないと思ってたことが、まったく軽んじることじゃなかったと自覚された。自分の費やしたエネルギーを長年軽んじてました。罰してたりとか。
でも、「自分よく頑張ってきたんだな」とやっと思えた…ってことが最近あったのです。私はヤングケアラーじゃないですが、ヤングケアラーだった人も「自分のやってることは大したことない」というマインドらしいですよね。
重苦しさは日常。人に助けを求めるほどじゃないはずと。
でも長年癒されてこなかった領域が確かにある。
ずいぶん経ってからそのころの苦しさが噴出するということもあるらしく。「頑張り」ってそれなりにストレスですね。
そりゃ良い成果をもたらすこともたくさんあるけど、ともかく頑張り続けていられないし、「なぜもっと自分を大切にしなかった?(しろー!!)」という命令がいつか絶対下される。
大学受験のストレスがすごすぎて4年間ほぼフヌケとか(自分)
癒やすには4年くらいかかっちゃうんでしょうよ、やっぱ。
頑張りたい/頑張りたくない/もうあきらめ…いろんな私がひしめき合って、やがて暴発するのが私のパターン。
あと「人の気持ち」を考えすぎるのも私の良くないパターン。
あの人はどう思うだろうかと。
考えてもわかんないからね。もう1人の冷静な私はそう言ってんだけど、でもでも…というネガ子がへばりついている。
自分がどうしたいか、だよ!
江口のりこかもしれない、その解は…という気がしてきた。というか「ソロ活」の五月女恵ですね。ほどよくナチュラルで自分を大切にする人。
江口さん牡牛座。ちょうどいいね。 -
スイッチを入れる人・入れない人
「境界を引く」というのは去年からの私の大テーマです。
家族や人間関係でいろいろあったのをきっかけに、本を読んだり夢分析とか、自分を見つめることにずいぶん取り組みました。
今までは人間関係って「本音で話し合う(たとえぶつかっても)」ことで築かれると思ってた。
でも書店でもネットでも、令和になってからは昭和・平成と違う「人間関係のススメ」をよく目にするようになりました。ぶつかるよりむしろ距離をとる。最近参考になったサイト → 「境界と親密さ」
前からあった鉄則かもしれませんが、私が特に学んだのは「越えてはいけない境界」が誰にもあるんだということ。体にも心にも絶対守らなきゃいけない領域がある。
最近、幼児や小学生にも「他人にむやみに触れてはいけません」と教育されるそうですね。
昔よくあったスカートめくりとか、ふざけてのキスとかも「親しみの裏返し」として容認しちゃいけないということを幼いうちから教えてると。
幼いうちから性被害の違和感に気づきやすくなるのは大事でしょうね。周りにも訴えやすくなりそう。いまだにドラマで、関係の浅いイケメンがいきなりバックハグしてきて「きゅん…」みたいな展開があるけど、そろそろあれもNGでしょうよ。だっててめぇがイケメンだから?
女をみくびってる雑さを感じるようになったのは私だけじゃないはず。
武井壮は壁ドンの成功率を「いや全然っす。20%くらい」と言って周りを「2割も成功!」と驚かせてたけど、そんなに壁ドン繰り出してる男が現存することに驚いた。
やっぱある種うっとりさせられる行為と思ってんだろうし、逃げた8割は「ありえない」ってことをよくわかってるんでしょうよ。
「境界」を侵害しかねない行為かつ暴力性をはらむ壁ドン。
これが令和の壁ドン定義ですよね?(ババアの目くじら)その境界。
私自信、「踏み込まれると弱い」とこがあるというのも2022年自覚しました。
恋愛だといわゆるグイグイくるスピーディーなやつ。
同性同士でも、「あなたがいてくれればいいの…」と濡れた目で言う人がいる。
あと「他の誰にも話してない」とか、親友宣言とかですね。
そういうの小学生からの夢・憧れでしたよ。
でもそれが叶うと私は壊れやすくなる、ということがわかった。
時に孤独を埋め合うような。「いつでも電話してこい」とか言う男。
でもって結構あっさり離れていきますよ。
私のスイッチを押す人々。一度開いたらそうは閉じない心の扉。
それは私にとって禁断スイッチですね。
どこまでも受け入れてくれそうなオンリーワンの存在、と錯覚する。
扉の奥にどわーっと何かが流れ込んで、それを愛と思い込む。だけどそれは彼ら/彼女らへの過度な期待と依存の始まり。
話し合いをすれば共感を求め、「わかってほしい」気持ちが強まる。
愚痴も夢も聞いてもらいたい。
そりゃ濃厚な時期もあります。
恋も友情も「あなただけ」の相思相愛が叶う時期がある。
その夢中なさなかに突然放置されるんだこれが。
その放置に大きく揺さぶられ。健全じゃない状態。スイッチを押すとか押されたとか、互いに「プレイ」なら何の問題もない。
押す側(と私が勝手に思う側)は、相手の依存心を刺激してるとよもや思わないはず。
でも、私にとってそのプレイは毒。そんな人は少なくないと思う。
押す側にとっては「ただの(いつもの)友好のしるし」、私にとっては「思わせぶり」
ただの友好で「あなただけ」と耳打ちしたり、みんなの前で頭なでたりとか誰も呼ばないあだ名で呼ぶとか「特別感」を示さないでほしい。そういう彼ら/彼女らも境界の問題を抱えてるのかもしれない。何とかして人を惹きつけたい欲求があるのかも。
恋愛だけは違う領域と思ってたけど、友情とそう変わらない。
尊重も境界も大事です。
しかし家族だけは違うとまだ思ってた。境界線薄いのが家族だと。
でも家族こそ境界線は必須。
「家族だから」という理由で踏み込んだりズケズケ言って傷つけちゃいけない…反省することいっぱいあるなぁ…40年以上生きてきて過去振り返って思うのは、「満たしてくれる」という甘い感情は罠ということ。
満たしてもらってもすぐ不安になるし、その不安もまた相手に埋めてほしくなる
そうやって「誰かに埋めてもらった」関係は長続きしない。私の場合。
穏やかであること。自分も相手も傷つかないこと(そう心がけること)
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頑張りすぎる件
メス猫を無事見送ることができました。
死に目には会えなかった。
仕事に行かなきゃならなかった。
猫は私が去ったあと、昼寝中の母の背後で息を引き取ったようでした。そういえば誰の死に目にも立ち会ったことないです。
祖父母も父も、歴代猫も小3ごろのハムスターでさえも。
今回も死の瞬間を見届けることが恐怖で、それを万物がよくわかってる気がした。計らい?
メス猫は口が開いてたので、穏やかな最期…とはいかなかったのかも。
最期の瞬間までなでてやりたかったけど「もう頑張らなくていいよ」と言われた気もした。表向き「飼っていた」ことになるけども、すべてが「私のため」のあれこれにも思える。
私が猫に会いに行っているようで、実は猫の信号に操られてた…ということあるかもしれない。
「なでに来い」という信号。
そんで私の心をぴったり埋めてくれましたよ。
猫といるだけで「幸せ」って思うんだもんな。
私の生活にだって幸せ要素は必須で、猫が進んでもたらしてくれたようだった。今の私は1年前とかこれまでよりも、幸せを正直に追い求めるようになってます。
まず「頑張りすぎない」ということ。
「頑張らないと幸せになれない」と、なんかずーっと思ってましたね。
幸せは頑張りの先にあるもんだぞと自分を説教してたみたいな。
頑張り足りねーぞ!はい!みたいな部活にずっと所属してましたよね。頑張り部?仕事を探すことも習慣みたいになっちゃって、探しては「ねぇな…」とため息をつく日々。
派遣とか正社員情報サイトに登録もしてみたけど、「いかにこれまで頑張ってきたか?」の履歴入力がとにかく苦痛。
それ読んで「ふむふむ、あなたの頑張りを我が社にください」とかってオファーを期待したりするわけ?
何も反応なかったら「私の頑張りはだめだったか…」とダイレクトに思わされる。
ク○だと思う。こうじゃなきゃ正社員や高時給にありつけないよという上から目線のこの社会の闇。
だったら「経験不問・年齢不問・服装自由!」のバイトの方が全然まし。
なんだけど時給1300円とかじゃ生活きついね…今それでも良い方か?仕事についても、そんなに頑張ることはなかったと気づいた。
もっと働かないと苦しいってわけでもない。ただ頑張りたかっただけ。
頑張り部の目的は頑張りだから、その目的を果たしたいという真面目さの惰性。
そうすれば自分の何かを安心させられるし、頑張ってないと責めが押し寄せてくるし。
ってか頑張り教の教祖、誰よ??
世の中も「頑張り」の意識の転換が起こってる気がします。
映画制作現場での理不尽な要求とか性被害とかに、「嫌だけど頑張る」風潮がこれまであったとしても、「もう嫌だ!無理・ありえない!」という声・告発がどんどん出てきてる。
「嫌だ!無理!」って相当正直な声と思う。無意識の真っ当な訴え。
なのにそれを抑え込むのが美徳みたいな社会で育ってきた。
なんで嫌?どうしたの?って誰かに聞いて欲しいのに、周囲見回してもみんな目を逸らす社会で生きなきゃならない。
そんな人はまだ多いだろうし、そんな体験、誰もが一度はしてるのでは。
私の知り合いも頑張る人だけど、最近髪が乱れてるのをよく見る。明らかに頑張りすぎてる。
何か事情があるかもだけど、「頑張りすぎな自分の一部」が彼女に映し出されてるようにも思った。
私と彼女の共通点は非正規。「頑張り」がどうしてもつきまとうんだこれが。
頑張りはある程度は楽しい。ほかのことあんま考えなくていいからさ。
でも嫌悪感とか「無理!」って感覚、大事なサインと思う。これからどんどん、世の中的にも。
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カムカムと猫
カムカムエヴリバディの最終週すごかったですね。
ひとつひとつ思い出すだけで涙がにじむ。
そんなラストウイークでしたよ。深津絵里さんの演技は本当に胸打たれます。
本当に見れてよかった。
お母さんの声をラジオで聴いたときの表情はもう大評判でしたが、ステージ上でお母さんを発見してからの気合の入った歌声。「役者になりたい」って思う人が日本中にぶわっと湧いたんじゃないかな。鳥肌立つようなお芝居。
オダギリジョーさんも素晴らしかった。優しげでこれまた…
るいを支えてくれてありがとうって本当思ったもんね。
松村北斗さんの存在感も戦前っぽかったし、儚く散ったあの時代の人特有の清涼感。
上白石萌音さんとの幸福シーンもすぐ思い出せるし、なんたって萌音さんの表現力ですよ。
アイヘイトユーの瞬間の萌音さんの重さとドラマチックさの余韻が今でも…そんな人は私だけじゃないはず。幸福感と絶望感のコントラスト、その表現力がすごいですよね。森山良子さんという絶妙な配役も。
「なんで?」と不思議に思うものの、今となっちゃ「アニーは森山さんしかいないでしょう」と思っちゃう。
そして川栄李奈さんです。
すごいですね、あの方。
ドラマ出るほどに魅力が引き出されてきてるのは感じてたけど、昭和の元気っ子があんなにハマるとは。
ぐうたらひなただったのに、本気出してからの頼もしさったらないです。
バブル期には森高千里っぽい前髪でしたよね〜。
「ビリー…!」と泣き笑いの川栄さんの笑顔がラストでよかった。あの余韻がずっとあります。
結婚をしないままラストを迎えた。これまた素晴らしいじゃありませんか!!
ビリーとハッピーな可能性を残して物語はおしまい。最終回で初めてあさイチでの朝ドラ受けを見ました。
「ビリー、物持ちよすぎ」
「あんだけ物持ちいい人は普通、うっかり落とすとかしませんよ」
というツッコミがじわじわきます。
男前外国人が手裏剣キーホルダーをずっと大事に持ってるなんて…
確かに日本大好き外国人って変わったものにディープな魅力を見出すからな…そういうこと?
あれも運命、これも運命。
「愛の不時着」をはるかに超える「運命の人すぎ」なあれこれ。
可笑しいとこがたくさんあって、ツッコミたくなるベタが楽しかった。本当に楽しかったです。
次作「ちむどんどん」の予告が「おいしいもの大好きな沖縄少女」っていうのがいささか不安…
予告はあくまで予告と割り切っていこうと思います。4月は今日までいろいろあって、今週は19歳のメス猫が危篤というか昏睡というか。
コロナ前から腎臓の悪さは言われてたけど、ついに命のラストが迫っています。
2時間に1回、激しい全身けいれん。
最初は死ぬ間際のけいれんと思って動揺したけど、けいれんが収まると息が安定する。
でも次のけいれんで…
という恐怖を今は乗り越えています。けいれんしつつ、水を飲んだり穏やかに眠っていたりする。
今晩こそ…という夜を2日乗り越えた今、「もう大丈夫」という気持ちで一時帰宅中です。
何が大丈夫かはわからない。
昨日は不安でしょうがなかった。
ひとつの命が消えゆく瞬間が怖くてしょうがなかったのです。
けいれんも見たくない。どうしようどうしよう。
実家に向かう電車の中で、疲れと不安が同時に押し寄せる。誰かの命が消えそう。
そのそばにいるというのはつらいですね。
不思議なことに、消えそうな命がこちらを励ましてくれるように感じることもある。
私の不安を、息の荒い猫が癒やす。
だから今はひとり安心してカレーを食べてます。あれについてとか・これについてとか、いろいろ書きたいことはあります。
まとまったらそのうち!
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女性デーということで
3月8日は国際女性デーとのことです。
「女性の働きやすさ」が、日本は先進国で下から2番目と!
最下位は韓国。
「家庭かキャリアか?」の選択を迫られる状況がまだ続いてる国。さすがに「家庭か仕事か?」の2択から、「家庭かキャリアか?」に変化したのは感じる。「寿退社」は死語に近いもんな。
といっても私の新入社員時代、4つ上とかの先輩は続々寿退社していった。2000年ごろはまだそんな時代でした。その他、昔と変わった女性環境を連ねてみます。
・女の一人旅が不自然じゃなくなった
→1998年に1人で関西旅行した当時、「女性1人OK」というビジネスホテルに宿泊。
旅館だとまだ「女性1人泊お断り」が多かった(女が一人で泊まるのは自殺の前触れと思われた時代!)
2003年ごろには女性が夜行バスに1人で乗ってる姿も普通になってました。あのころ1人専用シートバスも続々出現しましたね。・女の一人外食・一人飲みがしやすくなった
→街にスイーツ店やコーヒーショップができてから抵抗が減った印象。
それでも2000年ごろは「一人コーヒー」がやっと。飲食店で「カップルに挟まれる私…」とビクビクしなくなるのは2010年以降かも。「女の一人飲み・一人焼肉」が増えたのもSNS発達時代以降(2011年以降)の気がします(個人差あり。今でも女性一人でお茶も外食も無理という人はいる)・女=事務職一択という時代じゃなくなった
→1998年ごろは、一般職:総合職希望の割合は私周辺で7:3くらい。あのころ一般職を進んで希望した人は、「26までには結婚(そんで退職)」と描く割合も多かったんじゃないのかな(私も)。総合職希望の友人は無論結婚後も妊娠後も働く未来を見据えてた。そういう人が世の中をじわじわ変えていったんだと思う。・結婚後専業主婦が普通(寿退社)という時代じゃなくなった
→さっきも書いたけど、私の姉が結婚したころ(1995年)は寿退社がごくごく普通でした。
私が新人時代の2000年ごろもまだそんなムード。それが幸せへの道と信じられてたし、寿退社しなくても妊娠→退社という流れはあまりに自然だった。当時の職場が堅かったというのもある。
その後、女性ばかりの職場に転職したころは(2005年)「夫婦共働き」が自然になっていた。
でも「仕事か子どもか?」の2択を迫られた女性も多かったようです。
保育所整備なんてまだまだで、「夫婦どちらかの両親と同居あるいは近くに住んで面倒見てもらう」というのが標準だったですからね。・適齢期がどんどん変わってる
→私の20代前半・2000年ごろ、29歳で結婚の気配がない女性先輩に周りはなんとなく気を遣うようになり、31歳で未婚だと「どうしたんだろうね?」という目が向けられた。
32歳でデキ婚した女性先輩には「大丈夫かね?」という心配が集まり(高齢出産の心配!)、36歳で結婚した事務の女性に「いい人がいてよかったね」と涙を流す人までいる始末。
それが2017年にはアラフォーで結婚・40代で妊娠する女性が一気に増えました。・女性が取り分けなくてもよくなった
→「いかに小皿にうまく取り分けるか?」「空いたグラスに酒を注ぐか?」に神経注いでたのは2005年ごろまでだった印象です。
2010年ごろには「いいよ、俺たち自分で食べたいもの取るから」と声かけされるのがスタンダードになり、むしろ男性がサラダを取り分けてくれたり、ワインを上手に注いでくれたりする。今思えば当然と思う。瓶重いだろ。酒を注いでくれアピールする男は「あいつ何様?」という冷たい視線を浴びることに。たりめーだ。
私が最後に合コン行ったのは2015年ごろですが、それでもまだ「聞き上手な女」にポイント集まる時代でしたかね〜今はどうなんだろ?・口説き文句が変わった
→友人たちのエピソードです。
「スキーウエアとか一式買ってあげるからさ、一緒に行こ(宿泊込み)」(1998年ごろ)
「お前を守るから(帰宅後の俺を支えてほしい・仕事も辞めて全力で)」(2000年ごろ)
「君といると落ち着く・癒される・気が楽(妻の方が年上・収入が上)」(2015年ごろ)・結婚したい男性に求めることが変わった
2000年ごろ
1位 頼り甲斐
2位 お金と地位
3位 ドキドキさせてくれる(行動力)2020年ごろ
1位 優しさ
2位 安定感
3位 DV・モラハラ気質じゃないこと(人間力)この間、小島慶子さんが「更年期=年齢を重ねた女性=バカにしていい」、そういうムードに遭遇してひどくショックを受けたことがあったと語ってるのを見ました。
そうだよなぁ。つい最近まで全然そんな感じだった。
去年は「わきまえない女性」について盛り上がったばかりだし、まだこんなことで騒動になる国なんだな、と思う。
私がここであれこれ並べても、女性=男性という対等感には程遠さを感じる。
TVで活躍する女性の低年齢化も進んでる。1980年代にヒットした曲の大人っぽさ(例えば山口百恵とか岩崎宏美・中森明菜)は、今の時代に生まれようがないのかな。
最近やっと40代以降の女性主役ドラマが増えてきました。あとコメンテーターなども女性:男性比率を対等にしようという目に見えるムードは感じられるものの、ほんとここ2、3年という感じ。私が最近腹立つのは、「40代に見えない」とかいうワード。地味に失礼と思う。「40代に見えない女優ランキング」とか。40代に見えたらなんなの?見えない人が勝利?「40代に見えない男ランキング」はないのにね。
年齢言うと、「見えなーい」って蚊の羽音みたいに言う女いますね。でもあれしか言いようがないというのが日本の現状なんだろうな。アラフォー以上への肯定語がめちゃ少ない。最近つくづく思うのは、男性の額に刻まれたしわからはかっこよささえ漂うのに、女性芸能人やキャスターの額にしわは許されてないらしいということ。
NHK青井アナの額のしわが何気に好きなのですが、TVに出てる女性になかなかしわを見出せないです。ないの?ライト?
鼻を高くする女性芸能人もぐっと増えましたね。これでまた等身大の女性が減っていく。「ありのまま」なんて言葉だけ。
お笑い番組で女性アナ・女性タレントの笑顔をアップにする手法が主流のうちは、「女はこうであるべき」になんだかんだ苦しめられると思う。どんなにくだらないことでも笑う女性。R-1やM-1見てると、女性観客の笑いの沸点が低いという前提がそこにある。バラエティーのそのへんってアップデートされることあるのかな。私が未来に「こうなったらいいな」と思うこと
1 女性の体温管理が当たり前になること(その教育・啓蒙の強化)
2 男女双方とも避妊が当たり前のマナーになること
3 女性に対しての「かわいい」という指標がマイナー化すること
4 女性の研究職・専門職への道のりをもっとわかりやすくしてほしい1についての習慣化は、女性が自分の体の主導権を完全に持つこととつながると思うのです。自分の生理・排卵スケジュールがよくわからないという女性はまだ多く、保健教育の必要性をすごく感じます。今は便利なアプリもたくさんありそう。
体温の変化って、細かな体調の変化とつながってますよね。
その変化を把握できてれば、仕事やいろんなスケジュール管理もしやすくなるんじゃないのかな。
自分の体の声を聞くこと=自分を大切にすること。これからの女性がもっともっと自分本位でいられますように。2は人権に関わるとも思う。避妊を言い出せない、受け入れてもらえないなんてまったく対等ではない。
これも1が浸透していれば、女性の力の向上にもつながるんじゃないでしょうか。自分がよく把握してない状態の体を誰かに明け渡す、とか危険すぎる。
映画やドラマの性シーンでいちいち避妊描写を入れれば「そういうものか」と自然に浸透していくんじゃないかと思うけどどうでしょうね。装着とかピル服用とか。そりゃまどろっこしいけど、まどろっこしいのが現実。3「かわいい」とかって、個人が思う分にはいいだろうけど。
それが指標になってるのがムカつくというか、そもそも下に見てる言葉じゃないですか。褒めるなら「魅力的」に置き換わってほしい。
女性が結婚相手に求める順位は時代で変わってきたと思うけど、男性はいつの時代でも1位・2位に「かわいい」が来るんでしょうか。
石田ゆり子かわいい。50代なのにかわいい。大下さんかわいい。冠番組なのにかわいい。女同士で言う分にはいいと思うけど、「私も男にそれを言われたい」、みたいに洗脳してこようとするメディアにモヤモヤすんだよな〜「かわいい」は女の可能性をかなり封じてくる言葉と思う。4についてですが、最近TVやラジオで、例えばウクライナ情勢にしてもコロナにしても女性の専門家や教授って増えましたよね。増えたというより前からいたのかな。メディアがやっと積極的に採用してるということでしょうか。前はオールおじさんだった。
そういう女性を目にするたびに、自分がどうであったらそういう研究職に進んでただろう?と思う。
どうしたらなれただろう?大学教授とか何かの専門職・研究者になるなんて考えたこともなかった。
でもいらっしゃるわけで。
そういうルートがあるんだよ、ということを知りたかった。今からでも「女性の道・選択肢」としてわかりやすく示してほしい。
そういう女性たちの「私の履歴書」みたいなコラムを読みたいけど、どこかにあるんだろうか。国連の中満泉さんとか、どうしてその道に進んだんだろう?と思う。一体何歳から「そういう道に行く」と決めたのかなとか、今ならウィキペディアとか書籍で知れるでしょうか。でも、自分でアクセスするという能動性にかなりかかってる気がして。女性が政治や国際情勢、金融とかに普通に関心持つってことにまだまだ距離がある感じ。能動性がなければなんにも見出せないような、時代の可能性と限定性を勝手に憂いてしまう。
今はまだメディアが男性目線というか男性の価値観で発信されてるものが主流だから、よっぽど意識しないと「そーいうもんだ」って普通に心地よく受け取っちゃう。そんで知らぬ間に窮屈な型に入ってる。
姪っ子が24になった時「もう若くないから」って言ったのにショック受けた。なぜそんな価値観に!?
…おそらく、姪っ子と同世代は大学1年生とか2年をまぶしく「かわいいね」って見つめるんだと思う。そのかわいいから自分が外される前に敏感にツッパったんじゃないだろうか…。女の魅力に期限があるような価値観がまだこんなにも根強いなんて。それでもこの2、3年で随分いろんなこと変わりましたね。良い方向に。そのことも色々すごく体感してます。
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意図を持とう
最近、「意図」のことばっかり考えてます。
特に「生きる意図」「絶対死なない意図」
死なない意図ったって、そりゃ命が永遠じゃないことはわかってます。
でも「絶対死なない」とあえて意図する必要性を今特に感じてる。私は人より「絶対死にたくない」という思いが強いかもしれません。
そういう年齢になったからとも言えるし、去年手術してから意識が変わったかもしれない。
でも前から死への恐怖感は強かった気も。例えばストーカーっぽい目にあってる人もいると思う。
「お前なんかに付きまとわれない意図」をしっかり持ってみてはいかがでしょう。
「お前の意図にからめとられない意図」とかですね。
そのためにどうすればいいか?が自ずと見えてくるんじゃないでしょうかね。「基本信じる」という清涼感でやっていける世の中ではなくなっている。
殺意という明確な意図には、「殺されない意図」で対抗するしかないのかもしれない。ある夜、なぜこんなにも数々の不正がまかり通ってるんだろうと、怒り通り越して疑問でいっぱいになったとき「意図だな」と、ふと感じた。
「不正してやろう」「搾取してやろう」という意図にはかなわないと気づいたのです。
意図は明確なほどに叶ってしまう。「悪意」という意図は本当うまくやるんですわ。私自身、「フェアでピュアに生きる」というのがこれまでの信条。いささか恥ずかしい感じですが、日々の善良さに勝るものはないと思ってた。
でも40年以上生きてきた肌感覚からすると、善良チームなんてずっと負けっぱなし。負けても善良だからニコニコしてる。一生勝てない弱小チーム。弱小なりに得たものがあったとしても、「それを守る意図」がないとあっという間に搾取されたり不利な立場に追いやられたりする。そういう風景ばかりが印象に残る。
「善良」というただの意識じゃなんとも弱すぎで、良くも悪くも「意図」にたやすく乗っ取られてしまうのです。
私の所属するコミュニティーですごい暑がりの人がいて、今この季節でもエアコンを23度冷房に設定したりする。しかも誰にも許可を得ず。
みんなも寒いと思ってるし、なんならお腹壊してトイレに駆け込む人までいる。
なのにみんなその人に「寒い」も「温度上げていい?」とも意図を示さない。
私は何年か前にその人に文句を言いました。せめて温度下げるとき声かけてくんない?と。
その願いは軽く無視された。敗北。
というのは、私は「怒り」しかなかったから。その人は「絶対汗かきたくない意図」を明確に実行に移す。
寒がりの私は「絶対体を冷やさない意図」が必要だったんですよね。
それはその人に勝つとかじゃなくて、「温めればよい」それだけ。カイロでもなんでも使って冷やさないようにすりゃいいのです。
善良な人はお腹壊してまで耐える。
それを見て怒る私は「その人に温度を下げさせない意図」で対抗しようとしていた。
でも「相手を変えようとする意図」はたぶんあんまり叶わない。
今この国では平和が保たれているけど、それは「絶対戦争をさせない意図」が強く働いているからと思う。
でもいつだって、「戦争を始めたい意図」が蠢いている。その拮抗状態は年々高まってると感じます。
しかも「戦争を始めたい意図」の持ち主は、「自分は戦争の傷を負わない意図」まで明確に持ってると思いますよ。
怖いのは、平和や戦争に関してなんの意図も持たない人口がどんどん増えていくこと。
私は今の教科書がそういう作りになってんじゃないか(なんの意図もあえて持たせないような意図)と勘ぐっているので、それすら「戦争を始めたい意図」の仕掛けだったらマジ危ないと思ってる。そうしてなんの意図も持たない善良な人が悲しさを被る、歴史はそういう繰り返しだったじゃないだろか。
「戦争を絶対しない」というのは、戦前生まれの両親から受け継いだような意図でもあります。その意図の一翼を担いたい私の意図。
穏やかになんとなく生きてられたら一番いいと思うし、そう生きられると思ってたけど、気づいたらこんなに搾取されていた非正規の私…という呆然感は少なからずあります。
世の中そういう人ってとても多いと思う。
私なんかまだ家賃払えるからいいけど、「かつてあんなに活躍してたのに…」という人がホームレスにもなる時代。
ここ数年の私は「後退上等」みたいなツッパリ感があったけど、こういうの一番危ない。
一寸先は闇。
ちなみに最近叶った意図といえば、「好きな人と雑談する意図」
前はこの恋に対してもっと重めメンタルだったけど、「まず雑談だな」というところにやっと落ち着きました。そしたらあっという間に叶った(意図設定後5日以内)
それでもこの恋の行く末はまったくわかりません。
相手の真意はまだ謎だらけ。
少し前まで、「相手の気持ちはきっとこうなんじゃないか…」ということばっかり気にかけてたし、それが恋する醍醐味とも思ってたけど、わかるわけないんですよ、相手の心など。
そんなわからない相手の心よりも、「こうなりたい」という私自身の意図、叶ったその結果が重要なんじゃないか。相手と向き合うまでに細かな段階がたくさんあるのですね。
「まず相手をちゃんと知る意図」「そのための機会を作る意図」
それプラス、「パートナーや好きな人を何が何でも尊重する意図」「パートナーや好きな人から絶対見くびられない意図」「自分を卑下しない意図」も胸に強く持っておこうと思います。それで好きな人と結ばれなかったのなら縁がないということ。私の意図に沿わない人ということ。あとですね、街なかや公共施設内にいるときに、「何かあったらちゃんと逃げる意図」を持っておいた方がいいのかもしれません。
そのためには「行動」が必要、どこにいても「逃げルート」のシミュレーションするとかですね。
非常出口をチェックしておくとか、そういう意図を持っておくだけで、危険察知能力も上がるんじゃないかと思う。
邪悪な意図にからめとられないよう、生きていく意図を明確に持とう! -
タロット・猫相性
私がなぜ一度タロットから離れたかというと、チャットアプリで使うのに限界を感じたというのと、自分のことを占ったとき(主に恋路)に他サイトに頼ることが多く、その内容に一喜一憂したから。
巷にあふれるタロットサイトがいかに「吉凶」で語られていることか。
大体逆位置が凶で、しかも正位置と真逆の解釈になる。例えば「恋人」のカードが「相思相愛」としたら、恋人逆位置だと「浮気される」とか。
そんな解釈がわりと一般的にあふれてて、前からここに違和感を抱いていたものの「恋」を前にすると私も吉凶にすがりたくなるという、大げさだけど精神の危機を感じてタロットから少し距離を置いてみました。いや、難しい。
ほとんど何を言ってるかわかりませんが、「おもしろい!」と思うのはホドロフスキーとかウェイト版解釈への痛烈な批判箇所。
そして衝撃的なあれこれ。「私の20代の頃に1ヶ月の収入が5000円にもならなかった時期があり、道端の草を食べるという時期もあったが、その時は毎日のように体外離脱をして、また精神的、思想的なことしか考えられなかった」
「私はあるときに交通事故で骨折した。これは半分の自分からすると困ったことだが、もう一つの半分の自分からすると、”今のうちに折っとこうか”というものだった」
「(ホドロフスキーが)酔っ払いの年寄りのようなものではないかと思うことがある」松村先生の本は難解部分7割、グッとくるとこ2割、そしてほんわかしたツッコミどころ1割という感じですね。
そんで「タロット、特に大アルカナは占いに向かない」ということを何度も何度も述べられている。チャット占いでとても多かった質問 →「彼は私のこと好きですか?」
「好き」ということをカードからいざ拾ってみようとなると、とても難しいと感じました。
好きってなんでしょうね。
質問者はどんな「好き」なら納得・安心するのだろう?例えば「あなたとの現在の関係をとても平和的と思ってますよ」と伝えることがあった。
質問者によっては「平和?もっと燃えてくんないと…」という不満が残るんだと思う。この質問は不倫カップルや既読スルー気味の彼氏を持つ女性に多かった。
男性としては「関係がキープされてる♫」という平和感があるのだとしても、女性からすると「すぐにでも会いに行きたい」とまで思ってくれないと不安だと。
例えば「あなたに今とても夢中ですよ」と伝えることもあった。
「今?じゃあプロポーズしてくれますかね?」という追い質問を受けたりもする。
たとえ「今」の熱情の延長に「いつか結婚♫」が男性側にあるんだとしても、それが幸福なのかはわからない。でも質問者のゴールが「プロポーズを受けること」ならば、彼の今の熱情を伝えるんで十分なのかもだけど。
「好き」とか「恋愛」とか、そこだけ切り取って占うなんて不可能なんじゃないかとつくづく思ったんですよね。「関係性」を読むのがせいぜいなんじゃないのかな。そこで、私と実家の飼い猫の相性・関係性をタロット鑑定してみました。

実際はカモワンタロットで展開。著作権の関係で浮世絵タロットに並び替えました。私のタロット読みは前から松村先生の本がベースとなってますが、「タロットの神秘と解釈」のスピリットも少々入れてみる。ごくライトに読んでみます。
現状は「ワンド騎士」
会いたい→そして会いに行くという思いつき&行動力が「会いたい」を叶える関係・まぁ現状そうですね。私の顕在的な気持ちは「星」、潜在的な気持ちは「ペンタ4」
→遠く離れた猫ちんに会いたいな〜会いたいよ〜と、そこまで思うのは、「触れるとダイレクトに満たされる」ことがわかってるから。まるでエネルギーがチャージされるように。猫の顕在的な気持ちは「法王」、潜在的な気持ちは「ペンタエース逆位置」
→法王について、本から抜粋します。
「彼は良い悪いを言ってはならず、いわばハッピーか、もっとハッピーか、とんでもなくハッピーか、というような発言しかしてはならない」
つまり私と会ってないからといって「寂しい」ということはなく、「私がいない」という発想もなくて常に「自分中心の世界」にいる猫ちん。
私が会いに来ればハッピーが加算されるだけ。会って初めて関係性がリスタート。それまでは無。しかし「環境」の「ソード王」についての考察がまた興味深いです。
A地点からB地点に向かう時、「B地点に行く」という私の意思のみで現実がそうなっているとは限らない。
「呼ぶもの」が私を引っ張っているかもと…次、「未来」のカード。どちらもペンタクルスです。9と7の正位置。
私の「会いたい・触りたい」という願望が現実を作るということでしょうね。
「会いたいなら行けば」ということで、わりと簡単に叶えられそうな未来です。近いうちに実家に行けばいいのです。おそらくその意思が阻まれることはないはず。結果は「月逆位置」
→月といえば「眠り」
私と猫が相思相愛になれるのが夜。私が帰ってきて夜が近づくごとに、猫は私を布団へいざなう。
布団に潜り込みたいのです。私もダイレクトに幸福を感じる一夜。
だけど逆位置ってことは安眠とはいかないのかも。猫は実際に出たり入ったりを繰り返し、数時間おきにエサをねだってくることもある。
一晩ぐっすりという日もあるけれど、どうやら私の眠りが浅いと猫も体温で感じるのか眠れないらしい。今度実家に帰ったら安眠とはいかない猫との睡眠かも。しかし「月」は単に「眠り」だけじゃなく、潜在意識の領域を表すという。
そこで再び「環境」の「ソード王」
私が一方的に猫に会いに行ってるように見えて、実は何かに引っ張られてるのかもしれません。
「猫に引っ張られてる」とは言わないまでも、猫と一緒に眠ることでしか得られない「何か」をチャージするために。
そして猫もまた、私と寝ることで「何か」を得られると感じるから布団にいざなってくるのかも。
それは「あー猫を触りたい」と私が思うとこからもしかしたら始まってて、そういうときは私の何かが枯渇してるのかな。思えば「星」のカードが天から何かを受信中っぽい。
もしかしたら猫の側にも「なんか満たされねーな」という枯渇があって、私の「星」へ信号でも送っているのか…?うちのメス猫は現在18歳。長生きで元気。
不思議な寄りかかり方をする。縦寄り?

そういう「何か」とかが明らかになるなんて永遠にないのかもしれません。
でも一緒にいることでとても満たされる。それには意味があるんだと思う。
生きていると感じるし。触れていたい・ひっつきたいという相思相愛。
しかし猫は私がそばにいなければ、私の存在自体がオフなのでしょう。
待たれてるよりずっといいよ。今度は、人との相性を見てみたいと思います。
Zzz …

