日記・お知らせ・人間
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私の占い・スピ体験記
西洋占星術・タロットの勉強を始めてから15年ほどが経ちました。
私は小学生のときから占いは好きで、家に「愛の星うらない」という結城モイラさんの本があって、いっつも読んでたんですよね。
そんな私を見てか、親は「血液型うらない」という本を買ってくる。
そこには星座×血液型の組み合わせで見る性格占いなども載っていて、他人に興味を抱くきっかけの本でした。中学に入ると「ピチレモン」とか「マイバースデイ」とか読んでましたね。
高校でも木星の移動について語る友人ができて、雑誌の12星座特集は必ず買っていました。
ところがその木星の友人が私の部屋に来た日。
本棚に占い雑誌がたくさん並んでるのを見て引いたんでしょうね。
「結構信じてんだ?案外子どもっぽいね」と言う。
ぐさっときて、そこから「占いへの興味=恥」という思いがいくらか植え付けられてしまった。
大学に入ると、占いとか星座への関心は封印してました。
が!
そのころ「街の占い師に見てもらう」という人がちらほら出てくるんですよね。
中学時代からずっと片想いしてる人と結婚の縁はあるかどうか?を定期的に見てもらってた友人は、その後、その彼と結婚しましたね。
あと、口コミで「杉田さん」という霊視できる人が評判になり、みんな見てもらった。
私も見てもらったかな。
家族写真を見せると、そこに写る姉と夫の仲を危惧した。
それは結果として当たったんだけど、私の運命がどうだったか全然記憶にない。
でもあんま、結婚への太鼓判を押された記憶がない。
ふんわり「大丈夫ですよ」みたいな感じで、今思えば何が大丈夫なのか、「結婚しなくても大丈夫な感じで生きる人」という意味だったのかもしれない。
それなら当たってる。
それから占いにどれだけお金を使っただろう。
伊勢丹の階段のところにいらした新宿の母にも見てもらったことありました。
今思えば大して好きじゃない人のことでやたら悩んでて、なんかそのときも手のひらを見て「大丈夫」と言われた。
「同い年と4つ5つ上は付き合わない方がいい」とも。
その大して好きじゃない人は同い年だった。
なんかそんなんで吹っ切れた記憶です。Yahoo占いとかもいくらか課金してたけど、あれはほとんど当たってない記憶。
占いを続けていると「当たってる」「適当」の感覚がわかるようになり、逆に当たる占いというのは何を見て導き出してるのか?に興味を抱くようになる。
12星座で太陽だけ見ても意味がなさそうなこともだんだんわかり、石井ゆかりさんの本に出会ったりする。
石井さんは月や火星など多面的に分析されてて、また新月や満月も人の心に何かしら影響を与えると書かれていることにすごくワクワクしましたね。
そのへんのタイミングでたまたま行ったオイルマッサージ店で、石をもらった。
レムリア石というもので、持ってる人の絶妙なタイミングで誰かの手に渡ったりするのだという。
それをもらったのは新月だった。
そこからスピリチュアルの扉がこれまでになくガッと開いた感じがしました。
その石は数年後、猫がホッケーのようにどこかに飛ばしたらしく、行方不明に。
キャメレオン竹田さんのブログに出会ったことが、「占いを学ぶ」きっかけになりました。
渋谷でキャメレオンさんの鑑定を受け、その後、占星術やタロットを学びに行く。
彼女が所属しているという中野トナカイもまた運命的な出会いで、よく足を運びました。
そこで「フラワーレメディー」の講座に参加したこともありました。
これがまたなんとも心惹かれるスピリチュアルで、今の自分に必要な花のエッセンスをボトルでもらったりして、なんか本当に変化するんですよね。
そして自分自身が凪いでくると、ボトルのことなど見向きもしなくなる。
必要なくなるというのか。
「当たる!」と毎回思ったのが中野トナカイに所属する方達の鑑定でした。
タロットが不思議に当たる。
「この絵柄からどうやって言語化してるのか?」ということに興味を抱いて、タロットにものめり込んでいきました。
中野トナカイの先生は教えることも上手で、どうやら多くの方に松村潔イズムがベースとしてあるらしく。
松村潔先生の千駄ヶ谷のおうち?鑑定スペースにも赴いたことがありました。
「あなたは7度惑星を3つ持っていて、落差を感じる人生であることは否めない」なんて言葉がすごく心に引っかかり、こんな鑑定をする人は松村先生くらいです。
35歳ごろ、家族がメンタルの不調に陥ってから心理学を大学のオープンキャンパスで学んだり、「心」にも意識が向くようになりました。
実際に心を病んでしまったとき、どんなに星を見てもなんの解決策も見出せない。
「心身健やかに生きるには」という答えをあちこちに求めた時期でした。私は夢占いにも関心を持っていましたが、見た夢のキーワードを本で照らし合わせてもなんかピンとこない。
そこで、夢分析を本格的に行なっている講座に申し込んで1年通いましたね。
そこは今までで一番まとまったお金を払ったところで、今思うとなかなかの荒療治というか、通うのが苦しかった体感がある。
あのころの私は受け身で他力本願で、結婚以外に目的を定められず、「こんな自分だからだめなんだと」何かにつけ自分を責めていた。
と同時に、「自分が悪いわけじゃないんじゃないか?」「私が悪いように思わせる相手が悪いんじゃないか?」という思いも芽生え始め、それを確かめるようにもっと心の学びを深めようとする。
そこで出会ったのがヒプノセラピーでした。
前世体験ですね。
正直、前世体験自体はぼんやりしたものでしたが、セラピストの方が「私が悪いんじゃない」と、はっきり感じさせてくれる言葉をかけてくれたことにとても救われました。
その方の講座にいくつか通い、ヘミシンクにも一時期ハマりましたね〜。
あのとき、こういうスピリチュアルに最もお金をかけていた。
さすがにスピリチュアルジプシーになりつつあることに危機感を抱いてました。
もうこの頃にはブログも始めてて、鑑定も始めたころだったかな。
自分で鑑定をするようになると、「当たる」とか「出会う運命」みたいなことにどんどん懐疑的になる。
ホロスコープが人を導くということはないんじゃないか。
スピリチュアルにどっぷりになると、まるで何か大きな運命に自分は乗っていて、しかるべき幸せな未来に向かって、しかるべき人に出会えるはずと思いたくなるんだけど、「しかるべき」なんてものが先に用意されていて…ということはないんじゃないかと感じられてくるのです。
あるのだとしても。
実感がないままに「ある」という前提で鑑定をすることが私にはできなくなり、少なくとも自分が生きてきた体感に沿ったものしか言葉にできない。なんかここまですごく長くなってしまった。
今年、ダウジングにいきなりハマったりしました。
振り子ですね。
堤先生の初心者講座を受けて、いろんなこと振り子で占ってみよー!ってワクワクしたものの、今の私には占うことがあまりない。
気づいたら「明日は排便するか」ばかり占ってて、そのころ便秘がちだったので日々の排便事情が気になったわけだけど、水晶のペンジュラムではイエスだし、金属だとノーだし。
排便占いに飽きてきたころ、またフラワーレメディーを思い出しました。
そう!自分にふさわしいフラワーレメディーを探るのに、ダウジングって向いてるみたいですね。
今、10年ぶりくらいにフラワーレメディーを飲んでます。
「これが私に必要?」という位置を振り子が差し、買って飲んでみてから自分はまた少し変わった。
悩みがなくなった。
というのは、大げさかも?でも結構ほんと。今まで自分がなぜうじうじ悩んでいたか。
それは不安とか寂しさとか、自分が作り出したモヤモヤに飲み込まれていたようで。
フラワーレメディーはそのモヤモヤを作り出す必要などない、ニュートラルな状態を思い出させてくれた感じ。
そう、人をニュートラルににするみたいですね、効能として。というわけで、学んできた方などのお名前も連ねたかったけど、それはまたいずれ。
スピリチュアルや心理状態、運命性というのはこれからも私が興味を持って追究する分野のようです。
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同窓会の憂うつ
高校の友人から、この夏同窓会があるらしいと聞いた。
主催者は、あのころから行事を仕切っていた男子たち。
その名を聞いたとき、周りは似た反応になる。
不倫相手でも探したいのかね?みたいな。
もしくは仕事が順調であることをアピールしたいのか。
仕事で人脈を広げる必要があるとか?
どうも穿った見方をしてしまう。
だってよ、なんで同窓会なんてやりたいの?
仲間内だけで集まりゃいいじゃん。
学年のマドンナがどんなふうになってるか眺めたいのか?
誰かがすごくおっさんになってたら笑うのか?
いや、とても純粋な動機だろうとも思う。
「みんなと会いたいんだよ!」
そう爽やかに言いそうな幹事氏ではある。
でもなぜか、最後の精力(性力)を振り絞りたいように思えてしょうがない。
若い子を探すとかより、あのころ好きだった子や思いがけず華やかになった子に出会えたらいいなみたいな下心(じゃないの?)
中学の同級生同士の結婚パーティーに招かれたとき、ちょっとした同窓会みたいになった。
あのころまだ30になったかならないかくらいだったけど、地元の結婚率・出産率は高い。
すでに2人以上の子がいたり、結婚して7年くらい経ってたり。
「shikiはまだなの?」とは聞かない気遣いがある子がほとんどだったけど、「ねぇ、なんで?」とズケズケくる人もいる。
その未婚の1人、中学の時すごく仲良くしてた子は泥酔してたからか様子が随分変わっていた。
泣きながら、軽犯罪で拘置所入った話をし始めた。
その後トイレから出てこなくなり、そういうときに彼女を抱えたり「しっかりしろよ!」と強く言ってくれる男子がいて頼もしかったけど、私は静かに会場を後にした。
彼女を放置して帰った罪悪感がしばらく残る。
私はどうすべきだったのか。
大勢でいるといつも「私はどうすべき?」を探る自分に疲れるんだ。
「みんなで集まろうよ」という提案はすごく爽やか。
その爽やかさに「いいね!」と応じることは少なくない。
でもみんなと集まったときをイメージすると、混乱が始まる。
自分のどこを「近況」として切り取ったらいいだろうかと。
大抵は「どうなの?」と始まるからね。ぶっちゃけると、複数人で集まったときの「アドバイス」と「格差感」が苦手。
私もついアドバイスしちゃうんだけど。
「〇〇がいいと聞いたよ」「〜してみたら?」
気づいたらずーっとアドバイス合戦。
特に健康バナシ、料理バナシ。
おしゃべりしてるときは「やってみる〜」って案外素直に受け入れるんだけど、あとでどっと疲れる。
もっと疲れるのは「格差」を感じたとき。
「感じた」というほど、自分では意識してなかったりもする。
ただなぜか、みじめな思いが募る帰路。友人が結婚して家を買う。
子どもができて、その塾・習い事。
自分に子どもがいたら同じレベルではなかっただろう。
そんな彼女らに「こうしたほうがいいよ」と言われたら、ベストなアドバイスをもらった気にもなる。
自分はいつもアドバイスを授かる側で、ありがとうありがとうと。
そして疲れ。
善意しかない場です。
明るさと前向きさ、バイタリティーにあふれてる。
「今日はありがとう。元気もらえたよ」
それは嘘じゃないんだけど、使うことのないペッパーミルをもらった気持ちになる。
何を相談しても中立の立場を取られるなら、ここに来る意味もない。
複数人の集まりは、自分がこの自分でいいと思えなくなる危機を時にもたらす。
楽しいけど疲れてしまうんだよ。
自分が自分を否定する機会は極力遠ざけたい。
心地よく思える人や場所はとても限定的だけど、今の自分にちょうどいい狭さ。
だから同窓会に行くなんて今は考えられないけど、年取ったらまた変わるんだろうか。
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ほとんど距離
大谷選手の結婚報道。
それなりにブルーになるものですね。
それでブログを書く気になれなかった。というのは半分冗談で半分本当。
連日の大谷フィーバーは正直つらい。
大谷選手は悪くないのに、目に入れたくないと思うのもつらい。
メディアのしつこさにただただ腹が立つ。
しつこさというのは、人の嫌悪感を刺激するんだと思う。
TVを見て「もうやめてほしい」と思うとき。
自分の望まない何かで自分が満タンになっていくことに危機を覚える。
「ここ欲しい情報でしょ?」「ここ笑うとこです」というコントロールから逃げたくなる。
私は昔よく怒っていて、人によってすごく横柄な態度になることがあった。
年を取ってからそんな自分を大人の力で閉じ込めてきたけど、「距離が近い」という状況への限界サインだったように思う。
コロナ前って距離が近いことが「善きもの」とされてましたよね。
職場の同僚と腹を割って話すことだったり、家族で定期的に集まること。
頻繁に会うことが友達の証しみたいな。
そういう時期があるから今の人間関係が築けてるともいえるけど、オープンであることに疲れ果てることもあった。
突然怒り出したり横柄になる自分をよく反省してたけど、コロナ禍以降怒ることは激減しましたね。
快適な距離感が取り戻されたからと思う。
生まれて初めて自分らしい距離感を知ったような。
人間関係の問題って、ほとんど距離の問題じゃないでしょうか。
人を嫌いと思うときを振り返ると、相手と近い関係になりすぎてたり、大して親しくないのに胸の内をすごくさらされたとき(人の悪口や重い話の繰り返し)かなと。
ただ、その人と適正な距離が取れると、嫌いという感情も薄まったりするんですよね。
また普通におしゃべりしてたりする。
元彼から連絡来たりするのも、相手の嫌悪感も薄まったからじゃないかな。
距離が近いって、結構怖いです。
何か魂胆があるから距離を詰めたいと思う。
その距離を詰めたい側の思惑に飲み込まれそうな危機感を感じてるのかもしれません。
a・自分に好意を向けてほしいという見返り
b・自分の思い通りになってほしいというコントロール
これらは自分にも心当たりがあることです。
思い切り魂胆があった。
それでも若いうちは叶ったりしたのです。
でも当初、aだけで満足できたのに、やがてbに移行する。
bの段階になると早々に嫌われます。
嫌われるというか、露骨に距離を取られる。
そこで私も適正距離に気づけりゃいいんだけど、自分の状態が悪いときはただただ距離の近さを渇望してしまう。
依存状態から抜け出せない。
この依存段階ではどんな望みも叶わない。
いや、赤ちゃんのように泣きわめいたら、相手は根負けしてそばにいてくれるのかもしれない。
近しい仲だったら、たまには「よしよし」なんてこともあるのかも。
でも依存タイプは何度も同じ手を使う。
それが嫌だから距離を取るようになる。
距離を取れない人は共依存状態になりやすいかもしれません。
自分も過去、とある人の状況が良くなることに頑張りすぎてたことがありました。
1年ほど頑張って、最終的には徒労感しかなかった。
自分がどんなに頑張っても相手のためになってる感覚がない。
でも頼ってくる。
相手の状況を改善できない自分を責める。
ぎりぎりの状況でした。
自分のことは自分でしか解決できない。
頭ではわかってるけど、相手を突き放すことはとても怖かった。
色々覚悟をして距離取って、結果、相手は自力で改善に向かったから本当よかったけども。
「いや、ちょっと…」と相手から露骨に距離取られると一瞬ショックを受けるけど、それはただの黄色信号と思う。
それ以上突き進んで相手に赤信号出されたら、嫌いは確定するんだろうけど、それだって時が経てば黄色に戻るのでは。
ただ恐怖感が生まれると関係修復は難しくなる。
恐怖が募る距離感ってありますよね。
街の変質者で怖い思いしたのも距離近案件だったし。
距離の問題で危ないのは、突き放された側に恨みの感情が生まれたとき。
「自分を一番にしてくれなかった」「あんなに思わせぶりだったのに!」と、親密さの期待を「裏切られた」と感じると、態度が急変することがあるかもしれません。
自分は距離を詰めたいのに好きな人がうんと距離を取りたい人だと切なくなる。
それでも友好関係を保てる距離で関係を続けていくか。
自分の望む距離で縮められないのなら関係を断つか。
快適な距離はみんなそれぞれで、「この距離なら仲良くいられる」というバランスを無意識に探りつつ、みんな関係を保ってるんでしょうね。
とはいえ誰しもが寂しさを抱えてるんだとも思う。
距離感ぴったり!なんてことはあるんだかないんだか。
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なんにも似合わない
何を着ても似合わないというのが数年前からの悩み。
似合わなくなってしまった。体型の変化、フェイスラインの変化。
顔つきだって変わってきた。2年前に見つけた「自分っぽい!」というジャンパーをこの間まで毎日のように着ていた。
自分の姿を街の鏡で見たとき愕然とした。
自分は一体いくつなんだっけと。
ジャンパーからただ老いがはみ出ていた。仕事終わりに同僚とエレベーターが一緒になってまた愕然とした。
彼女の黒いタートルニットに、ベージュのロングコート、耳に光るピアスがなんて素敵なのかと。いや、ジャンパーいいじゃないかと思う。
ジャンパーという響きもあの形も自分っぽいのは確かなのに、それすら似合わなくなったら自分はこれから何着てどこに行けばいいのか。
なんにもフィットしなくなるとき。パーマをかけたい。
そしてヤンキーっぽくなりたい。
髪だけを派手にして、服は黒とかでいいんだ。
YOUのように。
やっぱYOUになりたい日が来るんだなと思った。
というのも。40・50代のリアルな理想モデルがどこにもいないんだよな。
なぜかアシンメトリーのベリーショートスタイルとか。
いまだバブルなリッチスタイルとか。
とにかく髪を伸ばして一部を緑にしたりとか。
金が必要な個性的スタイルが多いよ。
心の同学年、本上まなみは今どんなだっけ。
PUFFYの由美ちゃんは髪を緑にしてそうだけども。
渡辺満里奈はまだアシンメトリーだろうか。
満里奈さんにはもっといろんな髪型・服装にチャレンジしてもらいたい。
世代を引っ張ってもらいたい。でもわかる。
年を重ねると髪質に変化が出るため、きれいに伸ばすことが困難。
髪に時間をかけてもいられないし。
「すっきり」がこの年代の目的地になりがちなのはよくわかる。新しいかばんが欲しくなった。
色は黒ですね。
今まで黒なんてつまらない色を選ぶことはなかった。
金具もいらない。
なんにもきらめかせたくない。
ひっそり無難にフィットしてればいい。
真っ白なスニーカーが流行ってるのもわかる。
色を邪魔と思う時がくるなんて。
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独特の多幸感
自炊したものを食べた。
今、半端ない幸福感に包まれている。キャベツと玉ねぎ、豚肉と醤油から生まれるあの独特の甘みはなんだろう。
うまみが口の中にずっと漂っている。
買ってきたもののうまみとは明らかに違う。
幸せ。
だから自炊するんだなと思った。茶葉でいれた緑茶にも独特の甘みがある。
あれは不思議なんだけど、緑茶でしか味わえないんだよな。
麦茶やブレンド茶、はとむぎ茶やほうじ茶にはない甘み。
健康!!
そう叫びたくなる味わい。最近、2駅分くらい歩くことを心がけてるけど、ウォーキングにも独特の多幸感がありますね。
あと掃除してきれいになった部屋を感じたとき。どっちも無理・やりたくないという時期もあった。
去年の夏以降。
腰から下が異様に重かった。
運動すればいいんだよというアドバイスも聞きたくなかった時期。
わかっているけど頑張れなかった。朝、日光浴を数分してみてからちょっと健康になったんですよね。
せっかく買ったIKEAの椅子が放置されていることにきづき、日向に置いてみた。
そこで朝食を食べる。
あったか〜(多幸感)しかし最近は、あんなに好きだった甘いお菓子より、ポテトチップスの塩気をたまらなく求めてしまう。チョコが減らない。
塩分なんて普段意識してないので、そろそろ高血圧とかも視野に入れないといけないんかね。
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テレビが疲れる
バラエティーをほとんど見なくなった。
ガチャガチャしてて疲れるし、「ここ笑うとこ!」という誘導にはうんざり。女子アナが笑う。美しい女優が笑う。
ワイプでは気難しそうなお笑い芸人まで笑っていて、キャラ不明だった男性なんかも手を叩いて笑ったりする。
疲れる・・CMに入ったらまた疲れる。
インパクトだけを狙ったのか意味不明な騒々しさ。
センスのある騒々しさならまだしも、人を茶化したりやたら踊らされてたり、甲高いロリ声アニメがいきなり響いたりする。
女優が上から目線で商品名を言うことで何の効果があるのか全くわからない。自分がその世界に合わなくなってしまったんだと思うしかない。
差し出されたものを素直に楽しめないのだから。
合わないついでに言うと、整形にはどうしても不自然さを感じてしまう。
「そこまで伸ばしたかった?」と感じるほどの鼻の高さや目の変化をキャッチすると、いいね!と感じるほど寛容にはなりきれない。前のそのままのあなたがよかったと言われたらどうするんだろう。
好みだったあの丸い鼻はどこにもない。
変えたことで本人が前より生きやすくなったんならいいんだろうけど。
歯ががちゃがちゃしてたときのなんともいえない愛嬌とはもう会えない。おいしい・かわいい・すごいが幅を利かせててつらい。