舞台・映画・本等感想文
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「アニー・ホール」
ダイアン・キートンの死去に際し、2020年に書いた感想を一部編集して再アップします。
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「アニー・ホール」はとても思い入れのある映画。
21歳ごろリバイバル上映で初めて観ました。
BSなどで放送されるたび何度も見てしまう大好きな作品。
今回またU-NEXTで視聴。
1977年の作品です。
「アニー・ホール」といえばこのシーンですね。
(画像は映画.comより)
テニス合コンみたいなとこで出会った2人。ぎこちないながらも意気投合して、ダイアン・キートン演じるアニーの家でワインでも飲もう。
そこから始まった恋。ちょいちょい難しい映画なんですよね。
インテリ臭が漂うというか。
でも何よりウディ・アレン演じるアルビー・シンガーこそ、人のインテリ臭に露骨な嫌悪感を表す。
アメリカの政治や思想、地理的な特徴とか、いろんなことを知ってこそ楽しめる映画でしょうけどね。
20年たって見てもアメリカのことはよくわからないまま。
「究極の恋愛映画」ではあるんだけど。
当時42歳のウディ・アレン。
このアルビー・シンガーという男は、皮肉がすごい。知性はにじむ。
それらユーモアで中和するところが魅力とも言える。好みのタイプは知的な会話ができる女。
2度の結婚歴があり、女たちのイケすかなさばかり目につき始めたらもううまくいかなかった。
このアニー・ホールがまた変わった女で、知性とかって感じじゃない。
ユーモアのセンスもなんかヘン?
笑い方もなヘンだけどよく笑う。そこがよかった。
すごく惹かれ合った二人。アルビーは変わり者だし理屈っぽいのに、「こんな男は嫌だ」とは思わないんですよ。
一緒にいたらすごく楽しそうと思う。
甘い思い出をたくさん積み重ねられそう。
なんかダメなとこだって許容できてしまう。
やっぱり恋愛ってすごい普遍的なものなんだな。
「相手のために」とかいって自分のため。
帰ってほしくないのに住み着かれると嫌になる。
結婚願望ないくせに縛ってくるのは大いなる嫉妬ゆえ。
会話のほとんどが誰かに対してのマウンティングだし、ちょっと華やかな会合も嫌悪するから一向に広がらない世界。
変わらないでほしい、楽しいところに遊びに行かないでほしい、自分だけを見ててほしい。
恋愛の一番つらいところって、「違い」がやけに悲劇的な亀裂となって横たわるあの時期ですかね。
いったん別れた二人。
アルビーはライブ一緒に行った女と寝るけど、ベッドでいまいち盛り上がらない。
白けた真夜中のコールは、パニックになったアニーから。
「浴室にクモが出たから来て」アニーに呆れながらも駆けつけて、しゃかりきにクモ退治する。
アルビーのこの優しさとユーモアが、モテるゆえん・アニーが愛するゆえんですかね。
そんでヨリ戻すんだけど、奇跡みたいな幸福再来のあと、なぜ決まってもっとひどい展開になるんでしょうね。相手がホント嫌になる。アニーは歌手として誰かに認められるなんて思いもしなかったけど、LAのなんかすごい人(ポール・サイモン)に気に入られてしまい、運命が華やかに変化しつつある。
その気配を感じたアルビー、ついに「結婚しよう」と言い出す。
なぜ男はライバルが現われたときにしか「俺だけの存在ていてくれ」と表明しないんだろう。
今さら感に突っぱねるアニー。
苦手な飛行機で何千マイル飛んでこられたって、イコール愛ではないことをアニーはもう知っていた。
アルビーの好みの女とは違うアニー。
でもどの女といる時よりも「楽しかった」
それでよかったはずなのに、アニーを自分好みに寄せるために大学へ通わせる。
知性つけてこいってか??
賢い女が好みのはずなのに、なぜかいつもうまくいかなくなる。
でも「なぜ」じゃないのかも。
男のすること全部優しく笑顔で受け入れて、かつ賢いツッコミや丁々発止もできる女を、ウディ・アレンだけじゃなく男はみんな望むことなのかな。
俺色に染まってほしい。俺のコンロトール内に収まっててほしい?
映画見ててそこに苦しくなった。
この映画は、アルビーとアニーの交際がすんごい楽しく切なく描かれてるんですよね。
とりわけエビのシーン。
素で笑ってるふうのあのシーンを思い出すと、涙滲んでくる。
恋愛って本当に波があって、ものすごい幸福期もあるし。
だからこそ嫌悪期がつらすぎるというか、その繰り返し。
あとやっぱ二人のファッションが素敵ですね。
最後の最後のセリフで、20年前の私は少し泣いてしまった。
それでも付き合うのは、卵が欲しいからだろう?
今見てもぐっとくるセリフだけど、「卵?」と、しばし考えちゃいました。
でも20年前は考えなかったんですよ。
考えるな感じろでばーっと感動しちゃって。
今じゃ「どういう意味?」とネットで検索する。
昔は「わからないことすぐ検索」とかしない分の豊かさがあったはずで。
自分なりの解釈と想像を広げっぱなし。
わからないまま、映画の感動だけを胸に抱えてればよかった。一番たくさん見た映画監督はウディ・アレンなのです。
キネカ大森でウディ・アレン特集をやってたあのころでもありました。
でも「ギター弾きの恋」のあとはあんまり見てない。
「マッチポイント」もなんかピンとこなかったような。
「マンハッタン」といえばガーシュインのあの曲ですね。
「魅惑のアフロディーテ」がよかった!
「世界中がアイ・ラヴ・ユー」はサントラを買いました。
U-NEXTでも探してみようと思います。歌うアニーの幸福感にうっとり。
女の幸せとは、「わたし」という確立された場を持つことなのかもしれません。
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水谷千重子50周年記念2025
この間、「水谷千重子50周年記念公演」に行ってきました。
4度目の50周年、バカ言ってる ってやつですね。水谷千重子公演といえば、お芝居と歌謡ショーの2本立て。
去年までお芝居は時代劇でしたが、今年はなんとミュージカル。
CHICAGOならぬ「CAKUGO」!
(画像は水谷千重子HPより)
友近のネタ、ミス・フローレンスは去年末の検索ちゃんで見ましたが、千重子も見てたとのこと(?)
そんで友近に「千重子にもやらせてちょうだい」と拝借のお願いをして、脚本は二葉先生に依頼しての舞台化…という経緯ですが、この間のラジオで友近は、「いずれ西尾一男のようにミス・フローレンスも独立させたい」と言ってました。複雑!
西尾一男は今、「ピザを囲む会」とかもやってますもんね。高いんだこれが(行ったことはない)
お芝居はさすがミュージカルだけあって(今回お値段高かっただけあって)、華やかで見応えありました。
元和牛の川西賢志郎も重要な役で出てましたけど、あの人かっこいいんですね。
ミュージカルならではの大仰な演技もハマってたし、舞台全体がボケという中で、彼のツッコミが光ってた。その他、お芝居の感想を箇条書きにしてみます。
・YOUがめちゃくちゃきれいで可愛かった(歌声聞けたのも嬉しい)
・生駒ちゃんは前回もだけど相変わらず運動神経が良さそうで動きのキレがハンパない
・ガンバレルーヤのネタを初めて見たけど、さすが芸人!というキレで感動
・友近千重子のダンスもすごい上手だった
・城田優?と思ったイケメンは神里優希さん
・的場浩司の怖さに磨きがかかってた(スタイルがシュッとしてて素敵)
・バッファロー吾郎Aは相変わらず声が通る(おかげで大体の筋が理解できる)
・ラジオで「泣いた人もいた」と聴いて「まさか」と思ってたけど本当に涙がにじんだミス・フローレンスって、波乱万丈の人生を送った元ダンサーなんですよね。
検索ちゃんで見たときは、「過去の体験をかなり盛る婆さん」という感じでしたが、舞台ではその「盛ってる」疑惑に説得力を与えるような与えないような…「ムーンウォークはあたしが教えたんだよ」などなど。
生活笑百科時代の上沼恵美子西洋版なんじゃないかな。
それにしてもドラマチックな話でした。
友近ってほんっとに大仰なドラマが好きなんだなぁと思った。
それがまた私のドラマ願望も満たしてくれる。
かなりツボにはまるんですよね。
友近はよく「小学生のころからおもしろいと思うことが変わらない」と言ってるけど、私もそう。
というか、激しく同感する人・特に女性が大勢いるんじゃないのかな。
だけど、友近ほどは表現できなかった人がファンになって見に来てる。そんなとこだろうと思う。
むちゃくちゃおもしろいことを秘めた普通の顔した人たちの秘めた部分を友近が盛大に表現してくれてるように思う、だから託す!
安心して託せる人なんですよ。
ミス・フローレンスの何がおもしろいの?って一見思うんだけど、おもしろいじゃないですか。
一言じゃ言えないじゃないですか。
でも友近はおもしろいと確信して、やってしまう。
これまた大仰な写真(笑)確かに舞台上で知らされた真実はトンデモないものでした。
そして歌謡ショーがまた笑いました。
ババアになると笑い上戸・泣き上戸になるというけど、本当そうですね!
倉たけし(ロバート秋山)に泣くほど笑った。
どこで笑ったかって、まさとし先輩との絡み。
ありんくりん・ひがって、最近友近からよく聞くものの芸人としてはまったく知らなかった。
まさとしニーニーとしてYouTubeで見れるらしいですね。
まったく知らないもんだから、千重子に沖縄から呼ばれた上京感、そのイキった感じのどこからどこまでネタかわからず戸惑ったけど、全部ネタだと(そりゃそうか)
ニーニーのイキりがまた倉たけしを逆上させ・・笑いましたね。。
だけど2人がはけて千重子1人になっても笑えるんだからすごい。
千重子ってもう、ずーーっと噛まず・流れるようにトークするんですよね。
ラジオだと友近は「あれやあれ、言葉が出ぇへん」ってよく言ってるけど、千重子になるとそれが一切ない。
しかも笑える。やっぱとんでもない才能の人なんだなぁってつくづく思うけど、友近ってそれでも遠くに感じない。
あの絶妙な庶民感は随所に漂う「ダサ」のおかげなんじゃないか。
今回の千重子のお衣装は、いろんなお面や和のおもちゃがちりばめられたお着物。
どんな着物だよ!って思うけど、可愛いんですよね。
可愛いんだけど着たくはないかな…みたいな。
あと何より感心したのが、歌うときのノリのダサさ。
いぇい!みたいなブギのノリ感とか、エンディングの締めくくりでドラムに合わせてジャンプしたり、こぶしを軽くにぎったり。
これはロバート秋山もそうだった。
演歌歌手独特の表情が絶妙だった。なんかまぶしそうな男前顔とか、肩を入れて歌う感じとか。
おもしれぇーー!って釘付けになるんですよね。いるいる!って。
なんであの似せてる感じがこんな面白いんだろう。
オリジナル曲とかも全部ダサ調なんですよ。
とにかく今回はまさとし先輩とのデュエットですね。
まさとしニーニーは歌もうまいし三線で沖縄の曲もしんみり聴かせる人だけど、友近と歌ったIslandという沖縄男性デュオの「STAY WITH ME」という曲につかまれた・・
この旋律・歌詞といいドラマチックさといい、いかにも80年代!
友近がこの曲をチョイスしたそうだけど、やっぱ友近の好きなものって「あのころのドラマチックさ」がベースとしてあるんだなぁとよくわかる。
ユーミンが昔、ラジオのエンディングにしてたみたいだけど、この曲を参考にして「リフレインが叫んでる」ができたんじゃないのかなぁ、なんて。
私もあの感じ大好きなんですよ。
今、CMでも流れてる「Get Wild」にも通じるような、あの始まりの鍵盤の感じ…!前に宮迫が「春澪」として千重子の舞台に立ったとき、その歌唱の迫力に圧倒されたけど、まさとし先輩はそれを超えたと思った。
歌を聴いて人を好きになったことが、ない気がするのにあるような錯覚に陥ったんですよ。
というか好きになってしまう…と思ったですよ、ニーニーを。
そんな余韻を抱えて帰宅後、Wikipediaで調べたらニーニー(ひがさん)の誕生日が私と一緒だった…!
これ、中高生だったら好きになってましたね。
誕生日同じってことがなぜ「好き」の背中押しになるか意味不明だけど、そういうことありますよね? -
自己否定が止んで明日の楽しみ倍増
坂口恭平氏の「自己否定をやめるための100日間ドリル」を読み終えました。
自己否定が始まったら、それをノートに書いていちいち反論する。
坂口氏が提唱していたワークに取り組んでみたところ、2、3日目くらいで自己否定はぴたりとやみました。
「なんか静かだな」という感じ。
脳内というか体内というか。
最近見つけたカウンセラーという人のサイトもワークのヒントにし始めたから、効果が早かったのかな?1人で部屋にいるときの漠然とした焦燥感も消え、TVやラジオで「ぶふっ」と吹き出すことが増えた。
吹き出したあと、そんなにおもしろいわけじゃなかったと気づく。
でも体が反応する。
インナーチャイルドみたいなものが、むき出しになったんだろうか。
大人ってすぐジャッジの目線でものを見ますからね。
その大人部分は、それっぽく私を覆う孤独感だったのかも。
それが溶解したような感覚はあります。ワークしててわかったのは、私は自分を否定すること以上に「誰かを傷つけてるんじゃないか?」と感じることに参ってたんだと気づきました。
「無意識の自分の加害性」にやけに怯えてた。
心の中の刑事に、「罪を犯しただろう!認めろ」と責められ、そんな記憶もないのに「犯した気がする…」というマインドに変わっていく。
そして猛反省。「自分は罪人…」
そんな冤罪物語が脳内で繰り広げられていた。
なんて恐ろしいことでしょう。小5のころの、やってもない罪を担任に認めさせられたことがトラウマだったのかも。
男子の悪口を言ったメンバーに入れられ、最初は否定したのに信じてもらえず、「言ったかもしれません…」と結局謝った。
だんだんと、「実は言ったのかも」と感じるようになる。
あと家族の誰かが不機嫌だと「自分が原因かも?」と思い詰めたりして。
その証拠を自分の内側に探す。
本当は大人個人の問題なのに。
大人って怖いな〜。
純粋な心を簡単に不安に陥れる。そういう悔しさを閉じ込めて、「でも私も悪かった」とか思ってしまうと、同じような出来事が繰り返されるらしい。
そのときの悔しさや悲しさをとことん感じ切らないと、似たようなパターンは続いてしまうと。
私も何かにつけ「私も悪いとこあったし」って思おうとしてきましたよね。
でもみんなそうなんじゃないですかね。
自分の悔しさをいったん軽んじないと前に進めない、社会ってそういうもんだと思ってた。
だけど「自分を軽んじる」ってことは自分に対しての大きな罪であり、軽んじられた怒りは「感じ切る」ことをしないと昇華してくれないようで。
だからか〜と思いあたることはいくつもある。
同じような悲しみや悔しさの繰り返し。職場でもなんとなく話しかけられることが増えた気がする。
のんきさが外にも滲むようになったんだろうか。
一緒のチームになるとめまいがするほどムカついてた人にも、大した感情を抱かなくなった。
「ご自由にどうぞ」って感じ。
「その分、私も自由にやらせてもらいますわ」と心の中で宣言する。
だから話さない。
でも別に、前より険悪な空気じゃなくなった。
とはいえ、どうしても苦手!って人もいますよね。
その人は、私が「話さない」と決めるとそれが伝わってしまうのか、彼女の不安や痛みが押し寄せてくる感じ。これはワーク後も変わらない。
私が彼女に話しかけて彼女を安心させる、この一択しか許されない息苦しさは変わらずある。
私の何らかの投影かもだけど。坂口氏の自己否定日記は読むのわりとつらかったですね。
揺り戻しがすごい。
晴れやかな気分が綴られても、そのあとにドーンと落ち込むパターンが続くのが怖かった。
それが急に変わる。
数々の独白もあったけど、人間の問題はすべて「寂しさ」に集約されるのかもと思った。
寂しさから鬱になったり。
寂しさから不倫したり。
寂しさから人をいじめたり殺す人もいるのだろう。
私の転職熱が急に高まったりするのも寂しさゆえなんだろな。
「わかってくれない」
このどうしようもなさは、職場を変えても同じ結果をもたらすのだろう。私の場合ね。
自分が自分をわかってあげなくちゃなんない。
「わかってくれない」とか言いながら、どこかで「自分も悪い」と思ってるから、「100%肯定してあげる」って前提で心の叫びに耳を傾けなきゃなんない。
できそうでできないのは、積み上げてきた社会性が叫びをうまく隠蔽するから。
だから「自由!!!」と宣言することにしました。
「あたしの自由だろ」ってブチ切れてやれば、隠蔽野郎はシュッと消えますね(今んとこ)そんでまた嬉しいことに!!
明日からフジテレビ14:48〜「北の国から」ドラマ版が再放送されます。
いやぁ嬉しい。
地上波での再放送って30年ぶりとかじゃないの?
蟹座木星が私にもたらした福・第1弾と言える。<北の国からドラマ版のみどころ>
・子役2人(吉岡秀隆・中嶋朋子)がいかに素晴らしいか
・岩城滉一のかっこよさ
・いしだあゆみの美しさ
・田中邦衛の俊敏でたくましい時代
・竹下景子と原田美枝子と熊谷美由紀(松田美由紀)の美しさ
・地井さんと大滝秀治の頼もしさ
・宮本信子と伊丹十三出演の贅沢感あとはあとは…正吉くんやおじいさん、「拝啓恵子ちゃん」の恵子ちゃんとか。
キタキツネにルールルル…さだまさしの壮大なテーマソング。
「脚本 倉本聰」って映し出されたのを見ただけで泣くかもしんない(なぜ)(写真はとれたてフジテレビより)
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呪いからの脱却試み
最近、読んでる本。
「自己否定をやめるための100日間ドリル」
著者は坂口恭平さん。
坂口さんといえば長年の躁鬱状態を公表されていますね。
また、自身の電話番号を公開して死にたい人の話を聞く「いのっちの電話」の活動をされている。
私は12年くらい前に「TOKYO0円ハウス0円生活」や「独立国家のつくりかた」を読みました。
そのころ坂口さんも岡村ちゃんを聴いてることを知って、岡村ちゃんのライブで会ったこともある。「あ、坂口さん!」と声をかけてしまったけど、怯えた目だったことが思い返される。
まだあのころは「知る人ぞ知る」という存在だったのかな。
その後、ワタリウム美術館でのサイン会に行ったとき、私のことは覚えてないと思うけど、目も合わさず本を返されたことが少し悲しかった。
その後イベント終了の挨拶で、「おもしろいやつ、俺のとこに集まれ!」と呼びかけていて、集まったのは見た目からしてクリエイティビティあふれる人ばかりだった。
ライブの時とは違った華やかな坂口さん。
でもこの本読むと、坂口さんのギャップはわかる気がする。
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自己否定とは、自分をいじめる言葉を自分に浴びせ続けること。
他人に言わないようなひどいことを自分にかけ続ける。
「なぜあんたができると思うの?」
「夢ばかり見て」
「またバカやってる」ちょっと水谷千重子入っちゃったけど、私の場合は否定というより「呪い語」かも。
「その選択、絶対失敗するよ」
「将来不幸になるよ」
「お前だけ変だよ」
最後、ふかわみたいだけど心の中じゃ笑えない。
これらがバージョン違いで脳内めぐるととても苦しい。坂口さんは自己否定のゆえんを幼少期に見出した。
私もたぶん幼少期の家庭内。
年の離れたきょうだいが良かれと思って人生アドバイスをしてくれたことが一部呪いになっている。
しかも脳内でめぐるときの声は昔の友人だったりして。
何もかもうまくいってるような友人たちから見える私は、心配の種だったかもしれない。やめたほうがいいよ、あなたに合わないよ、うまくいく人なんて数%だよ。
こういう制限系の呪いも多い私だけど、自分が特徴的と思うのは、それでもやってみようと賭けてしまうところ。
なまじ行動力があるために、挑戦してこそ人生だ!みたいなテンションには一応持っていける。
転職も恋愛も何らかの応募も。
だけど50歳にしてこの挑戦マインドはさすがにおかしいと思った。
最近も転職に前のめりになり職務経歴書を書いたけど数日後、急に熱が冷めた。
坂口さんも著書で、躁状態の自己肯定感が高いときも「見えにくい自己否定」が行われていると書いてて、確かに能動性がやけに高まってるときって「もっと挑戦&努力で高みへ!」という危険ないざないにあおられてる気もする。そんで苦しいのは挑戦のあと。
賭けが実らなかったり、数年後に行き詰まりが発生したとして。
誰にでもうまくいかない時期はあるはずなのに、私はそれを「選択の失敗」と捉えてしまう。
これまで積み上げてきたこともオセロみたいにひっくり返されて全部黒。
やっぱり自分はバカだった、みんな警告してくれてたのに。
自分の選択、判断は誤り。
みんながまとも。自分がおかしい。
数日間、こんな自己否定。「みんなが」という価値判断にはどれだけ苦しめられたかと思う。
私は昔からなんか変なのかもしれず、それは平均より家族の年齢が高いゆえとは思う。
「幼稚園の遠足でサラミ持ってきてたよね?」って覚えてた子がいて、時を超えてひどく傷ついたこともあった。本人は意外と笑い話にできない。
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今の職場では、「みんなの常識」と「我慢」に打ちのめされることがある。
「しくじったかも」と、それがささやかな体感でも自己否定の嵐にさらされる。そりゃ私だってある程度の我慢はするけども。
「みんな」という横並びルールにどうも慣れることがない。
我慢できない人がいるから諸々の改善につながるのに、そんなボヤキもただの愚痴。
最近はフラワーレメディーを数滴ふくんで心を落ち着かせてます。「我慢を続けると、人にも我慢を強いるようになる」
何年も前だけど、これをある人に言われてから我慢はやめていこうと思った。
この国は我慢する人ばかり。そりゃいじめやモラハラは減らないでしょう。
でも我慢できなきゃ「変な人」になってしまうから、押し込めて頑張って、涙が止まらなくなったりする。
「あなたは変なんだよ(間違ってる)」
この呪いから脱却するには、「変じゃない!変じゃない!」という味方を心に登場させなくちゃならない。というわけで、自己否定をやめるワークを始めてみた。
私は「相手に何か不快なことをしたかもしれない」とも思いやすいので、「自分は攻撃的な人間じゃない・その証拠」をメモしてどんどん重ねていきたいです。
呪いをかけてくる亡霊にその証拠を突きつけるために…! -
映画「国宝」
「国宝」見てきました。
写真は映画.comより最近、Xのタイムラインにものすごく感想が上がってきてて。
「べらぼう」関連をフォローしてるからか、横浜流星情報が特にピックアップされる。
その感想だけでおなかいっぱい、見に行くことはないかな〜と思ってたんだけど。この間のEテレ「スイッチ」が吉沢亮×中村鴈治郎。
そしたらエピソード2だったんですね。
吉沢さんはエピソード1で特集されたらしい。再放送も見逃し。
少しだけ映った「国宝」のシーンがあまりにも美しかったので、見に行ってきたというわけで。
朝9時半の回なのに席埋まってました。あまりネタバレしないよう注意しつつ、以下について書きます。
・吉沢亮について
・横浜流星について
・田中泯について
・その他雑感・吉沢亮について
吉沢さんという人は、「いわゆる普通の」というドラマに当てはまりにくいんだと思う。たぶん、その魅力が枠に収まりきらない。
物語が吉沢さんの存在に追いつかない。
追いつくような物語が当てられてない。なかった。
だけどこの「国宝」
吉沢さんの才能・魅力・美しさが存分に発揮されていた。と感じた。
それがとにかく嬉しかったです。
まぁ〜美しかったですよ。
美しい人を見る楽しさって何なのでしょうね。また、吉沢さんは孤独が似合う。
どうしてあんなに悲しい目をするのだろう。
私が初めて吉沢さんを見たのはドラマ版「レ・ミゼラブル」(2019年)
ディーン・フジオカさんの青年期役。
収監されていたという孤独な役で、演技がすでに完成してた記憶。
朝ドラ「なつぞら」でも早逝してしまう儚げな役でしたね。そういえば吉沢さんのラブシーンって見たことないと思った。
「もっと見たいな」とか思っちゃって。
ただ、吉沢さん演じる喜久雄が、相手にどのくらい愛着があるかはわからなかった。
「わからない」という演技をしてたんだと思う。
喜久雄の心は誰もわからない。
「愛」ということもつくづく考えましたね。
ChatGPTは「性行為は窓のようなもの」と表現した。
何の相談したんだって話ですが、性行為をすると相手の内側が時に窓に映り込む、ということらしい。
愛情が映し出されたり、そうでもなさ度がわかってしまったり。
私は喜久雄と女性との関係を見て、そもそもこの世界は愛を過信しすぎてんじゃないかと思った。
とりわけ性行為の中に真実があるように思い、そこから生まれた命に意味を持たせる。
私は喜久雄を「なんて孤独な人だ…」とずっと見てたけど、天涯孤独ってわけじゃないんですよね。
喜久雄は何に愛を感じてたか、それはとても儚いものだった気がする。
「スイッチ」で鴈治郎さんは、「映画は記録として残るけど、歌舞伎はほとんど残らない」と言っていた。
歌舞伎は一瞬一瞬の芸に全力の魅力があり、「それを観に行った。観た」という感動は確かに他の芸術より抜きん出てるように感じる。
吉沢さんは「何も信じてない人」の目をしていた。
だからこそ芸の上達に邁進する。それが報われたり報われなかったり。
「孤独」の予感をいつもたたえたあの目がすごかったです。
目的を果たすために「歯牙にかけようか」と能動性を見せる喜久雄。
吉沢さんの目は「何か」を宿らせた時にすごく光るのです。・横浜流星について
Xでは「吉沢亮がすごいのはもちろんだけど、横浜流星あってこそ」「私は俊坊派」という書き込みをよく目にしました。
「べらぼう」関連で目につきやすかったのかも。
私は吉沢さんにやっぱり掴まれたんだけども、流星さん演じたお初はちょっと言葉にならない凄みを感じましたね。この物語のメインの時代は1980年代で、服装がそのころっぽいんですよね。
流星さんがチェックのシャツ着ると、いかにも80年・90年初期の準主役で、そうだ、流星さんってそもそもこういうタイプだったじゃないかと、なんかすんごい懐かしくなって。
演技確かで顔も綺麗なんだけど、準主役として脇にいる人。「ヤヌスの鏡」とか大映ドラマで、ハンサムなのに平凡なクラスメート、流星さんはそんな雰囲気だったですね(個人の感想です)
でもなんか、それが嬉しいというか。
たぶんだけど、主役を凌がないような配慮がされてたんじゃないか。
流星さん演じた俊介がなんかダサかったんですよね。
いっときやさぐれてたのに、かわいいカーディガン着てたりとか、なんかぶかぶかのスーツとか。
たぶん、そうまでしてモッタリさせないと、流星さんも相当キラキラしてるから。
血筋のいいお坊ちゃん役ですもんね。
不思議なんだけど、「血」の確かさを感じたんですよ。
それはカメラワークなのか、演技なのか、ストーリーの妙なのか。
「べらぼう」見てても思うけど、流星さんは人を油断させますね。
本人あんなかっちりしてそうなのに、演技の柔軟性がすごい。・田中泯について
人間国宝じゃない人が人間国宝を演じる、そういうふうに撮るってことの凄さが今も押し寄せてきます。
田中泯さん演じた小野川万菊は人間国宝。
歌舞伎の裏側って中村屋ファミリーとかの特番でたまに見るけど、若い子が挨拶に来て彼らを意味ありげに見つめるとか、そこまでの裏側って見れない世界で。
この映画の楽しさはそういう裏が見れることでもあるけど、田中泯さんのあの声とか動き方、表情などすべてが超リアルと感じた。
わかんないけど「いるいる!」と思った。
それで歌舞伎の何がすごいって、老人に近い男性が女形としてしなやかに踊ったりするところで、当然顔には皺が刻まれたり、人によっては大柄だったりするんだけど、芸がすべてを凌駕するんですよね。
明らかに老人でも「美」がそこにあることにただただ感動する、歌舞伎はそういう場所で、私も勘三郎さんや七之助さんなど中村屋の歌舞伎を何度か見に行ったけど、あの息を呑むような表現を田中泯さんが再現してるという。
よくぞ田中泯さんをキャスティングしてくれたと思う。あそこだけ本当の人間国宝や歌舞伎役者だってよかったはずなのに。・その他雑感
渡辺謙さんももちろんグッと来ました。
寺島しのぶ、永瀬正敏、宮澤エマ、あと青年期の2人!
黒川想矢くんはすごい役者にこれからなっていくんでしょうね。
映画「怪物」の子ですね。
杉村太蔵が出てるのかな?と思ったら三浦貴大さんでした。女性陣は見上愛、高畑充希、森七菜。
女の蚊帳の外感!!
わざとそう描いてるのか、そうとしか感じる余地のない物語なのか。
高畑さんは吉沢さんが帰ったあと泣いていたけど、ちょっとわかると思ってしまった。
幸せな時間を過ごしたはずなのに、なぜか泣けてくるようなこと。
たぶん心が響かないから。
相手の気持ちが届いてこない。
自分の気持ちが届いてない。
心はそういうことをよく知っている。
いっそ俊介の母・寺島さんのように、「息子を一流に育て上げる」という目的が持てれば幸福の度合いも強まるのだろうか。相当大変だろうけど。
あの世界では「女として幸福を感じる」なんてことは捨て去らなきゃいけないんじゃないか?とか思ってしまった。「母としての幸福」それしかない世界に見えて。
だから外部の喜久雄を家に迎え入れるとなったとき、寺島さんの顔に「嫌な予感」がよぎったのは怖かった。
そういう不安はどこかで暴発して、相手にぶつけることになる。喜久雄の人生の波。その体感は悲しさの連続。
吉沢さんの目がいい意味でトラウマになりそう。いい意味で…
私の隣におじさんが座ってて、奥さんと一緒に来てたっぽい65歳ぐらいかなというところ。
ラブシーンでおじさんが急に私のほうを見た。なんでだよ!
吐血シーンで「あっ!」と声を上げたり、「せりあがるのか」とか。
最後の方ですんごいソワソワしだして、長いから飽きちゃったのかもだけど、喜久雄のあでやかさに変な気持ちになったんじゃないでしょうね。
奥さんに「シッ!」とかやってほしかった。
涙をすぐ拭きたかったけどおじさんに見られたら嫌なので結構流しっぱなしにした。喜久雄に自分を重ねたいかも…と思うところはあった。
結局つながりなんだな…と寂しくなるところ。
つながりのある人は強い。なんだかんだつながりを選ぶ。
目の前の人がどれだけ孤独でも、「じゃあね」と所属先に戻っていくんだ。
そこに愛があろうとなかろうと、つながりこそが自分を守ってくれる場所とみんな知っている。
と、途中まで思ったけど、喜久雄にもつながりあるじゃんと思った。
でも喜久雄の心が選ばなかった。満たされなかったのだろう。
じゃあ何が喜久雄を満たしたのか。どうであれば報われるのか。
・・一緒に考えようとしちゃダメだね!疲れるから。
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女性2人のラジオトーク
田中みな実が自身のラジオ番組で、西野七瀬に肌手入れのダメ出しをしていたというネット記事に興味を抱き、「あったかタイム」を聴いてみた。
西野七瀬さん、結構好きです。
劇団☆新感線の舞台を見に行ったとき、身のこなしの器用さに惹かれたんですよね。
元乃木坂といえど女子女子してないし、結婚してからますます中性的になって、特に最近の狙ってるのか狙ってないのか微妙な髪型が可愛い。
感情があるんだかないんだか、微妙な受け答えもなぜか好感を抱く。
(写真はLmag.jpより) 田中みな実の「あったかタイム」は時々聴いてるけど、大体男性陣に褒められて嬉しそうにしてたり、もしくは男性を説教してるか、けなしている。
そのけなしが結構急角度なので、攻めるなぁ〜と感心したりもしますがね。
性格のキツさがそれなりにあらわになるので、みな実さんはそのほうが番組がおもしろくなるからと、プロデューサー目線みたいな気概とかきっとありそう。
美しい女性の鑑みたいな存在でありながら、自分の仕事環境を自分で快適にしていく能動的な勇ましさもラジオから放たれてました。女性ゲストって珍しいと思ったんですよね。
しかも西野七瀬。
2人は「グータンヌーボー」で共演してたんでしたっけ。
何回か見たことあるけど、西野さんの存在感ってどうだったのか記憶にない。ラジオでの西野さんは思った以上に「感情があるんだかないんだか」と感じる単調さだった。
みな実に圧倒されてたのかな…
ってか、あんま仲良さそうに感じない。
でも田中みな実さんってぎりぎり昭和気質な面倒見の良さはすごい感じますよね。
男性陣にもそのへんの情の厚さをいつも褒められている。西野さんとの間には確かに温度差を感じた。
もう世代が違うんだなという感じ。
みな実さんは現在37歳、西野さんは現在30歳。
年齢差からすると大したことないけど、みな実さんはちょっと昭和気質が強すぎる気がした。
それがネットで取り上げられちゃったんだろうな。
その美容の話。
朝起きて、ろくに保湿もしてない西野さんに「だめだよ〜」と。
「小学生なの?」というキツい一撃。
「シミになるよ」という脅し。
私の年齢でも、年上の女性からさんざんやられたアドバイスや脅しを、みな実さんはひととおり繰り出していた。
こえぇだろうなと思う。
めんどくさかっただろうとも思う。
でも男性ゲストに言うのと同じようなキツさだったので、よく言えば一貫してたのかな。みな実さんは女性とのやり取りがそもそも苦手な人なのかな。
アドバイスと説教が多い女性って私は疲れちゃうけど、こういうタイプって社内に3人はいるよな。性格はキツイんだけど、似たようなタイプで寄り集まってる美女軍団みたいな。
逆に西野さんの交友関係にこういうタイプはほとんどいなさそうということまで感じた。
わかんないけどね。
私は肌の手入れよりネギの話が気になった。
西野さんはネギが好きとのことで、話の内容からすると一般的な白ネギと思う。
青い部分も食べます、みたいな。
みな実さんは「九条ねぎみたいな青いのと白いネギとどっち好き?」と聞いて、西野さんは一瞬「??」となった。
だけど、みな実は食い下がる。ってかどっちが好き?って質問も女子女子してる。
西野さんは青いだけのネギを買って食べるとかがあまりないんだと思う。私もあんまない。
「青いのもおいしいよ〜」とか、ネギ大好きの西野さんに「ネギって口がくさくならない?」とか、ちょいちょいマウントしたがるのな。
自分ではそう思ってないだろうけど、相手にマウントと取られかねない発言ってすごく気を遣うと思うんですよね、人間関係を円滑にしようとするなら。保湿や肌の手入れをほとんどしてない西野さんへのダメ出しが続いた後、「夏の間は日焼け止め20、30本使う」とみな実が言ったところで、今度は西野さんが「エッ…」と引いた。
ここでちょっとみな実が慌てて(自分でも使いすぎと思ったのか)、「そうよ〜(女はそれくらいするものよ)」と繕ったところは可笑しかった。
「1本使い切ったことがない」と言った西野さんからは「とにかく自分は自然児の路線で」という堂々感がみなぎっていた(ように思えた)
ラジオのエンディングでみな実さんは「まさか先越されると思わなかったわよ(結婚)」とも言ってましたね。
ここまでくると天然記念物というか、ザ・昭和人間の称号を授与したくなりますよ。
先越されるって・・知らねーよ(と思っただろう七瀬さん)
「全然結婚する気ないみたいなこと言ってたのに」
「のに」!!
昭和世代が言う「のに」がどれほど怖いか、みな実さんはわかってないんだろうな。
やっぱりみな実さんは自分を立ててくれる男性ゲストとのほうがしっくり来ると感じましたね。昭和的な部分でモテる最強の女性が田中みな実ということなのだろう。
ヒヤヒヤしたもんな。
ドライで中性的な生活を楽しんでいる西野さんにいちいち「えー!」とかダメ出しする。
それがみな実さんなりのコミュニケーションであって、悪気がないのはわかるけど、相手が怖がっちゃうだろう。みな実も不器用なんかな(誰だよ) -
映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」
(写真はシネマトゥデイより)ホアキン・フェニックスの最初のアップに、またあの痩せ細ったアーサーになっている!と衝撃を受けました。
最初のジョーカーを撮り終えて、アカデミー賞のころにはふっくらしてたのに、この役を前にしてまたハードな体づくりをしたのでしょう。
背中とかあちこちから骨が見えていた。アーサーは第1作の終盤で逮捕されたので、今作の舞台はほぼ刑務所内。
あと裁判が始まったので裁判所にも護送される。
相変わらず貧相なアーサーだけど、その存在は神格化されていた。
ジョーカーの格好でロバート・デ・ニーロ演じる大物コメディアンに生放送で物申し、あげく銃殺。
その様子がお茶の間に流れ、TV局から逃げたアーサーが捕まるまでの間にジョーカーに自分を重ねて感激した庶民が街に溢れていた。しかもアーサーはすでに複数人を殺害していたのだから、どんな言い分も境遇の独白も同情すべきものではないんだけど、そんな倫理観も制止もむなしく、アーサー/ジョーカーこそ自分達の代弁者だと熱くなる人が増殖して、このあたりで映画としての評価の賛否が激しく分かれてたようですね。
ただ映画としても、「アーサーはめちゃ愚か」ということが殊更描かれてたように思いました。
こんな男、信奉するに値しないよ・・みたいな感じで繰り返し愚かさが描かれてた。
確かに第1作のアーサー/ジョーカーはちょっと愛らしかった。私にとっても。
バカすぎるんだもの…
たぶん、アーサーのこれまでの人生は怒りと悲しみに満ちていて、あと理不尽な目にもどれだけあってきたことか。
だけど、それをうまく言語化できる人じゃない。
自分の置かれた境遇を社会問題とつなげて怒りに変えるとか、改善に向けての行動に何も結びつけない・つけようとしない、結びつけられないのか?というあたりの幼さがすごくよく描かれててたんですよね。
自分がつらい目にあってるのかどうかすら直視してないような。
だからコメディアンになる妄想に逃げる。
ヒーローになる妄想も。
それはいつしか現実と区別できないほどの病的なものに。
それがまた悲しくて・・
こういう人が怖いのは、「感じる」というところを一気にスルーして「怒り」にすぐ結びついちゃいそうなところ。
そうなったら行動は早い。銃を手に入れたらすぐ撃ってみたりする。危ない!!アーサーは刑務所内で生活してても相変わらず何も深まってないように見えたんですよね。
ただ、囚人仲間からも崇められたり、街の熱狂的なアーサー支持者の声がムショ内のTVで流されたりもするからか、一見かっこよくなっちゃってんですね。
たばこの吸い方がわりかし渋くなってたりとか。
そんで無口だから、拘留中の女(レディー・ガガ)からポーッとした視線を受けたりする。
さすがのアーサーもこのモテ感で自意識が芽生えたらしく、「自分見られてる」とかに敏感になって、それっぽくレディー・ガガに近づくくらいはできるように!
この2人はどっかでヤっちゃうだろうな…と感じさせるほどの惹き合いで、ただ、そうはいっても囚人。
そんなチャンスあるんかな・・とか思いながら映画見てましたね。ちょっと驚いたのが、「フォリ・ア・ドゥ」はミュージカルっぽい作りだったこと。
それでレディー・ガガか!と。
ホアキンの歌声がまたいいんですよね〜
ヘタウマなしゃがれ声が切ないのなんのって。
第1作もアーサーがみじめすぎて愚かすぎて、これはコメディーじゃないのか?と思うほどでしたが、第2作はコメディー要素がわりとはっきり感じられました。
レディー・ガガと夫婦漫才やってんですよね。妄想で!!
でもこのシーンは切なかった。
ジョーカーとガガのコンビいいじゃん!ってすごく思ったけど、現実としては6人も殺した男がこんな楽しいステージに立つことはない。
だけど、妄想上のジョーカーは「間」とかバッチリなんですよね。
レディー・ガガにマイクを奪われて、「僕もステージにいるんですけど?」って置き去りにされたときのトボけ仕草はちゃんとコメディアンしてるというか。
レディー・ガガも相当ヤバい役でしたが、ああいう女いそうだなって思った。
セクシーに物憂げに振る舞うけど、「あなたが欲しい」、それ以上でも以下でもないように見えた。
男の威光を自分のものにしたい。
「私はあなたと山を築きたい」
レディー・ガガ演じるリーが何度もアーサーに言う言葉。
これはいくつかの考察を読んで初めて知ったことですが、とある目的の比喩らしく。
第2作の目玉展開といえば、アーサー/ジョーカーの裁判。
全米注目の裁判で、傍聴を求める人で溢れかえったりする。
リーも「見に行くわ」とアーサーと約束したので、もうアーサーがそわそわしちゃって(笑)
渋い自分を装ってても、こういうとこでモテなさが出ちゃう。
リーの姿を見つけると、授業参観で母親を振り返る子どもみたいに何度も傍聴席に顔を向けて、時にはリーだけにこっそりメッセージ送ってんですよね。
(次回はもっと前に来て!)みたいな。全然こっそりじゃないやつ。
なんの映画だよ!って、壮大なんだか卑小なんだかこのあたりがジョーカーのおもしろいとこで。
みんなお前を見てんだから、世紀の裁判。
なんでこっそりが成立すると思うのか、こんなにバカだなぁと思いながら愛着も芽生えるというのは寅さん以来です。あとジョーカーのおもしろいとこは、荒唐無稽さがナチュラルに描かれるとこですかね。
アーサーがジョーカーのメイクで証言台に立ったりとか。
なんで許されるんだよ。
このメイクをしたほうが饒舌になれるからと。
そんであちこち動き回ったり、座り込んで頭を抱えたり。
だけど大仰さを許してこそ、確かに事件の核心・アーサーの気持ちがぽろぽろと語られる。
この第2作での荒唐無稽度No.1はレディー・ガガが「来ちゃった」とこですかね。
独房に来ちゃった。
お金や権力があれば可能なんだろうか?
いや、絶対なしだろう。でもアメリカなら…?
考察ではアーサーの妄想説も見かけました。
でも妄想にしては、第1作のテッテレーみたいな種明かし映像もなかったし。
そのテッテレーの妄想で勝手に恋人として描かれてたアーサーの隣人女性も証人として立ってましたね。
アーサーの同僚も来ていた。低身長のあの優しそうな彼。
この彼の証言で、アーサーはかなり揺さぶられた。
自分は誰から見ても透明人間か忌み嫌われる男と思ってたのに、自分を肯定的に見つめるまなざしがあった。
それを救いとして受け入れるには遅すぎたというか、自分への愛を自分こそが拒絶していたことに気づいたんじゃないだろうか。
アーサーから一気に脆さが溢れ出す。
その証言を見ていたリーは、心が離れた。私が個人的に思ったのは、男女の惹き合い、そのスピード感ってやっぱり当てになんねぇなということ。
アメリカって特にスピーディー展開こそ最上の愛みたいに描くけど、ヤりたいだけというか、そこまでの過程をいかにドラマチックに描くかに命をかけていて、後半はあっけなく別れが描かれたりする。
日本みたいに、最初の出会いの通じ合いこそが運命性・永遠性の象徴って感じじゃない。
あと女は「こうでありたかった自分」が投影された人を好きになるんだろうかな。
女が自分より社会的地位が上の人とか、芸術性・表現力のあたりで輝く人を好むのは、女である以上越えがたい壁を突破して躍動してるような人に、自分の未開の何かを託してるんじゃないかと思うことがある。
そうであるなら、リーにとって「脆い男」は不要ということか。
でも並の女なら、愛する男の脆さを目にすれば、一層愛しくなるもんじゃないのかとも思いますけどね。
またアーサーも、自分の主役性を奪うリーへの潜在的な不安というか予感が妄想に表れる。
夫婦漫才でも、いつの間にかリーのオンステージになっちゃうんですよね。
それがいつも耐えられないアーサー。
いいよいいよ、君の表現力も最高だよ…とはあんまならない。
アーサーは表現者としての相棒を求めてたわけじゃない。
「あなたは最高よ」っていついかなる時も讃えてくれなければ意味がない。
男もまた母親レベルの肯定感と包容を相手に求め続けている。
アーサーは母親の愛に飢えてたので特にね・・
最後はちょっとショックでしたね。
ここには書かないけど、パート3はもうないですよって宣言でもあるのかな。
待ち望んでも無理ですよって。
第1作が終わって、アーサー/ジョーカーの余韻が膨れ上がってしまった人は多かったと思う。
私もかなり余韻を引きずりました。
だから、2作でまたアーサーと会える!という喜びは少なからずあった。
それは社会的にいい心持ちじゃないかもねと、制作側もそんな人を諭す仕掛けを映画のあちこちに散りばめてたように勝手に感じたりした。
とはいえ、私は第2作の夫婦漫才が結構な余韻として残ってますね。
夢でしかないあの時間。夢だからこそのきらめきがあったんですよね… -
武田砂鉄「父ではありませんが」
武田砂鉄さんの本を初めて読みました。
タイトルにひきつけられた。
(父ではありませんが 第三者として考える)
武田さんは「父ではない自分」から見える・感じることを率直に書いている。
その率直さにすごく揺さぶられたんですよね。
武田さんは既婚ですが私は未婚。
共通点は子なしということだけど、本では「わかるわかる!」と思うことばかり。
その一方で「ここまで書いちゃうのすごい」と、ドキドキする。というのは、「子がいない」という立場で家庭や子どものことを語る・書き表すって勇気がいるじゃないですか。
「でもあなたは子がいないでしょ」「経験してない人には絶対わからない」と人に言われることをすごく恐れると武田さんは語る。
そうなんだよ。
「この件に関して発言権がない(のだろう)」と思ってしまう。
それは誰の思いを汲み取ろうとしてるのか、自分もよくわからない。*****************************************
友人が自分の子を小学校受験させようか、とても悩んでいたとき。
私は自分なりの意見を言った。
学生時代からのこの友人グループはいつでも率直に意見を交わし合ってきて、「思ったことを言うね」というやりとりができる貴重な仲間だと、みんな互いに思い合っていると感じていた。私が意見の半分も言わないうちにもう1人、子がいない友人が私を制した。
「うちらは何も言える立場じゃないよ」あ、そうだっけ?
でも、そしたらあらゆる子ども関係のこと、どんな意見も言えないじゃないかと憮然ともしたけど、悩んでた友人も私の意見を聞きたいわけじゃなさそうだったので、そのまま黙った。
それはもう10年くらい前だけど、今なら「悩んでる人の話をとにかく聞く・受け止める」って、まずそれか…と思える。
意見なんて求めてねぇぞと。
あろうことか私は子どものいない立場でアドバイス的な発言をしようとした。
どんなテーマでも話し合える関係性の私たち、みたいなことに甘えすぎてた自覚もある。
そうやって、あのときのことをいまだに反省する。が。
いまだに反省ってなんだよ。
武田さんの本を読んで何かが蒸し返された。
子どもがいないと、やたら申し訳なく思ったりする。
産んでないことに対してじゃなくて、「気遣いがもし足りてなかったらすみません」みたいな。
あとやたら自分を安く差し出す。
「自分はほら、子どもいないし時間たっぷりあるのでじゃんじゃん使ってください」とか、主に労働の現場で。
「子どもがいない立場でのあるべき姿」というのをずっとずっと模索してきた気がします。
それはとても苦しかったし、「べき」とかを探らなくてもいいんじゃないかと、
武田さんの本を読んで思ったわけで。40代で未婚・子なしという日々は、体感としてそう悪くない。
だけど世間の40女の価値の低さよ!
ネットニュースの見出しを見てもさんざんな疎まれようで、結婚願望あり・子なしの要素が加わるとさらに雑巾みたいな扱いになる。
「誰が雑巾拾うねんww」みたいなコメント。
どうしてこんなことになってるんでしょうね。
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映画「PERFECT DAYS」
(MOVIE WALKER より)
上映中なのでストーリーには触れないようにします。
率直な感想としては今の日本の映画界からはこういう作品は生まれないだろうなということ。
なんて、わかったように言っちゃうけど、外国人の目線でしか見えないことがあって、その「外国人の目線」という説得力がないとこういう作品は作れないんじゃないか。
いい映画を見た、それだけでいいはずなのに、不思議な寂しさが漂う。
切ない映画でもあった。だから帰路に感傷的になっただけかも。
物語の舞台は、スカイツリー周辺の下町と渋谷区周辺。
役所さん演じる平山は下町のアパートに住んでいて、毎朝早くからトイレ清掃員として車を西へと走らせる。いつからかスカイツリーは下町のシンボルとなり、東京タワーはリッチさの暗喩となる。
スカイツリーのふもととなればある種の生活水準がイメージされ、特にドラマだと古びたアパートや銭湯がよくセットで描かれますね。
私自身、近いエリアに住んでいるので、この地域に豊かな何かが見出されるのは嬉しい。
豊かさだらけだよ、ということを知ってると思えるというか。リッチな人に「全然豊かじゃないし」と言われりゃ、そうかもね、なんつって話を打ち切るだろう。
話にならない。会話が成立しない。
冷笑するならほっといてくれ。
平山はそんなことすら言わないけど、時々お金や持ち物のほうから冷笑しにやってくる。
それは避けられなくて心が乱されるけど、そんな日もあるよね。冷笑したのは自分かもしれない。
外国人っぽい視点だなということ。
平山はヨーロッパにいそうな年配者でも日本にはいないんじゃないのか。
ついそうやって視線の熱感を下げようとするけど、そのうち自分を重ねて見ていた。
自分の10年後、20年後の想像ってなかなか恐怖で、今と何も変わらなかったらどうしようとか。
10年なんか経たなくても、今でも膝抱えて音楽聴いてていいのかとか、誰かの目線が下ってくるような妄想。そりゃ社会経験や地位の上昇を重ねれば、積もる感慨や選ぶ言葉も成熟したものになるのだろう。
幼稚さの発露を恐れ、隠し、「まぁこんなもんだろ」という装いで外に出る。
「どんな自分だっていいだろ」と思える日のほうが少ない。どこかびくびくしてる。
目に見えるものを自分だって積み重ねてきたかった。
どこまでいっても社会的な評価ばかり気にして、年を重ねることを恥ずかしいと思う。
それらから自由になれるのがたった1人の時間。
結婚の話題になったときの役所さんの顔が宇宙人みたいでした。
何も読めない。
そういう顔の平山が随所に見られ、
「この件に関してどう思うのか?」ということの回答をいちいち持ち合わせない人っているよね、と思った。
私なんてのは聞かれもしないことの答えを律儀に用意しといたりする。
人を納得させられるように。
その機会は別にきやしないのだから、平山みたいに大いに戸惑ったっていいんだ。
エンディングの役所さんの表情はすごく想像力がかき立てられるものでした。
私の想像。
・ゆうべの交流の感動
・ひどく悲しい(ある人の告白)
・心からほっとした(また変わらない日常と交流)
・大好きな曲が妙に沁みるときって、あるんだよなぁ…自分と同じじゃないか。
あと空と川と植物はずっと見てても飽きない。
飽きないんだよなぁ…と、映画見た直後くらいはそういう時間をたっぷり取りたくなりました。
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好きな漫画2023
した。
(画像は「湯遊ワンダーランド」Amazonページより)
もう本当に癒やしの漫画で、この年になってもこんなに惹かれる漫画と出会えることが嬉しい。
→ 私にとって「癒やし」とはある種の不気味さを感じられること。
「アル中」でもおなじみの”フェイクプレーン”がまた出てくるところがたまらない。
あと弟の「やっちゃん」も安定の不気味さです。今流行りのサウナがテーマですが、「ととのう」とかがメインストーリーじゃなくて本当によかった。
いや、これからととのっていくのかもだけど、1巻の半分を読んでもまだ水風呂に入れない主人公。
銭湯のヌシと会いたくないから時間をずらしたり、犬の散歩で会う人とも顔を合わせたくない。
小心さに加えて、思い込みも激しすぎる。
不気味さってなぜこんなに癒やしなんだろう。
どこか自分を見ているような、自分が漫画内で躍動してるように思えるからなんだろか。思えば私が好んで読んでいる作家さんの漫画は、大体不気味要素ありです。
・つげ義春「ねじ式」「紅い花」「李さん一家」「ゲンセンカン主人」など
・上村一夫「同棲時代」「サチコの幸」
・沖田×華「透明なゆりかご」「お別れホスピタル」「不浄を拭うひと」
・大橋裕之「シティライツ」
共通するのは主人公のダメさがにおい立つようなところで、純粋すぎるのか社会から浮きまくる。
「浮きまくる」ってとこが不気味なんだと思うけど、自分と似てる気がするから癒やされる。
生きるにあたって自分はヤバさをだいぶ押し込めてるんだなと気づきますよね。
心惹かれる主人公たちは押し込められずに露出しちゃうから苦しみまくる。
それを見るのが楽しいというかバカだな…っていうか、自分はもっとうまくやってるぞ…と思えるものの、自分こそいつ社会でつまずくかしれないドキドキが漫画で刺激されるのも楽しい。
沖田さんの漫画にはどこかしら病んでいる人が大勢出てきて、自分とは切り離せない地続きの姿が描かれてるように感じるんですよね。(画像は「不浄を拭うひと(1)」Amazonページより)
そして泣ける話が多い。
「透明なゆりかご」はドラマ化されてない話もたくさんありますが、どれも胸を打つ。
子どもにまつわる選択は本当、人それぞれだし、赤ちゃん・子どもには何の罪もない。
それなのに…という事態の連続で、「命」のインパクトがすごい漫画ですよね。
個々人の選択は時に強烈で不気味だったりする。
来年は「お別れホスピタル」がNHKでドラマ化決定したようで楽しみ!
「ゆりかご」と同じチームというのも期待大です。大橋裕之さんの漫画にもヤバいやつがたくさん出てくる。
しかも突き抜けてないヤバさだから町で嫌われたりしてて、孤独度がすさまじい。
よくいる犯罪者のように、物語内でも逆上して目につくものをめちゃくちゃにしようとするんだけど、そこで奇跡が起きたりする。
その急なスケールアップに感動しますよね。このスケールは、つげ義春「海辺の叙景」のラストシーンを思い起こす。
あの海一面のページにはなぜか泣けるんですよね。上村一夫「同棲時代」は「性」の不気味さが際立ってます。
一緒に暮らしてても大して幸せそうじゃない。(画像は「同棲時代」Amazonページより)
だけど激しく求め合うし、どこでも「しましょう」と誘う。
性行為はごまかしであり一区切りであり、心を埋めるもの。
今日子と次郎を見ていると、男女は昔っから愛と性と「幸せになること」の乖離を埋められずにもがいてきたんだと感じる。何事かと思うような不気味さ満載の物語ですが、圧倒的な画力と詩的なモノローグに引き込まれるのです。
どの漫画にも真実など表現されてない。
表現したいものを各々が自由に表現している。
こうして並べて思ったのは、私自身これからはもっと適当に生きたいなと。
自分の中の真実味を誰かに信じて欲しかったのがこれまでだとして。
誰かに届けようなんてことはもう手放して、楽しく遊ぶことにもっと重点を置ければ。
私には画力がないから言葉で遊べたらいいんだけど。
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「怪物」「誰も知らない」
先日、是枝裕和監督の映画「怪物」を見てきました。
そしたら最近、「誰も知らない」の配信もされてるというじゃないですか。
ずっとされてなかったのに、怪物上映記念でしょうか。
なのでこちらも視聴。
「怪物」は上映中なのであまり中身に触れないようにして、感想にとどめておきます。(映画comより)
映画終了後のクレジットで、音楽:坂本龍一氏だったことを思い出しました。
ピアノや金管楽器の音色に何度も涙腺刺激されたけど、友達と一緒だったから我慢してしまった。是枝作品といえば子どもなんですよね。
監督が描く子どもにやたら泣けてしまう。
でもみんなそういうわけじゃないみたい。
一緒に行った友達からも感動という声は聞かなかったし、「万引き家族」で私が泣いたところも別の友人と共感し合えなかった。
でも今回さすがに美しく描かれすぎかなとは思いつつ。
でも、よくこんな景色ありましたね!と、その美しさと少年とのマッチングにまんまと感動した。映画見る前になんとなく思ってた安藤サクラの役が想像と違ってて、なんかモワモワというかゾワゾワして落ち着かなかった。
え!こういうこと言っちゃう?坂元裕二脚本だから?ってずっと動揺しながら見てて、でもとあるセリフで自分の心の方向が定まった気がした。
「悪気はない」「よかれと思って」って本当嫌だなと思って。
「お母さんはよかれと思って…!」とか嫌だなぁと。
自分にもそういうとこあるし、よかれは避けられないんだけど、それが浮き上がるのは坂元作品だからかな。この映画はいろんな仕掛けがあって、そういう動揺や戸惑いはもうしょうがないと思う。
わかんないところもいくつかあって、多分いいセリフなんだろうと思っても、そう受け止められなくて、でも田中裕子さんならどっちでもいいと思った。どっちでも受け入れようと。瑛太ですよ。怖い。
いや、これも仕掛けがあって、あとでいろいろわかるけどどうしても怖くなる悲しさがあった。
そういう人いるよね。
自分もそうかもしれない。
一生懸命になるほど周りが引いていくような。
そんで当たり障りない人が評価されている。
「加減」がわからない人の悲しさかもしれない。そして男の子たち。
安藤サクラの息子役の子はどこか柳楽くんを彷彿とさせる雰囲気があった。
そんで星川くんはなんと、「ラストマン」の福山さん子ども時代の子と!気づかなかった!
彼らのシーンがたっぷり描かれたのが救いでした。
泣こうと思えばどこでも泣けた。男の子たちを「わかる」と思う感性は、でも同じ年くらいのあのころの私にはなかったかな。
もうその感性はあのころ随分曇っていた。自分で自分をごまかしていた。
年をとるごとに「わかる」と思えるのは、あのころよりずっと安全圏にいるからと思う。
安全な環境じゃないと、そんな感性に正直になれるはずもない。そんな恐ろしさの中で努めて友好的に過ごしてきたなとつくづく思った。
でもごまかせない子もいて、ごまかしたくない子というか、良く言えばピュアなんだろうけど、学校みたいな場では危険なほど目立ってしまう。
それを脅威と思う側の残酷さもたっぷり描かれる。そして是枝さん、クリーニング屋好きだなぁ!とも思いました。
「誰も知らない」
(U-NEXTより)あのころの柳楽くんをやっと見れた!という感動。
なんと!柳楽くんの妹役の女性が「怪物」にも出られてたようで。どんな残酷な映画だろうと心して臨んだけど、是枝さんは残酷さを描くことを努めて避けたんじゃないかと感じました。
というのは、まず子どもが泣かない。
汚いシーンがほぼない。
なんだかんだ人と触れ合っている。それにしても「おい、大人!!!」というツッコミが波のように押し寄せますよね。
「大人!このっ…!ここで頼むから!」と懇願したくなる子どもだけの生活。
母親役はYOUで、あの役はYOUしかできないなと感慨深くなりましたよね…
なんというか、これまでも貧困映画いろいろあったでしょうけど、あんなに眉が細くて髪が明るくて声がかすれてて、そういう役作りをしなくてもYOUのままで成立する頼もしさというか。
そんで、YOUが子どもとめちゃコミュニケーション上手で、だめじゃん!とも思った笑
いや、いいのか?
愛に溢れすぎる家族シーン。
じゃあなぜ・・!!!!という切なさでまんまと苦しくなったから、いいのか…柳楽くんの何がすごいって、焦燥感と罪悪感ですかね。
あとちゃんと子どもなところ。
そりゃこの年だと遊びたいよね…という笑顔の後に駆け足で帰ってくるような。
そんで待ってる弟や妹みんな無表情、みたいなとこ。
柳楽くんが日々どんだけ下の子たちを思って食料調達や金策に走ってるか、誰も知らない。
そのまさに「誰も知らない」というところが時間差でじわじわきて、その後1日ずっと泣いてしまうようなメンタルだった。
是枝さんの作品っていつもそんくらい重いんですよね…誰も知らない。この残酷さ。
泣き顔や汚さが映らなくても、このタイトルと柳楽くんの奔走だけで胸が詰まる。
外に出れない妹や弟。
柳楽くんのすぐ下の妹の子も相当うまくて、自分の赤い爪の中にしか世界がないような表情。
その下の弟はあんなにふざけBoyだったのに、無表情になっていく。
その下の妹はひときわ目が大きくて、父親はたぶん違うけどそんなことは知らない。
柳楽くんに保護者の責任果たしてほしいみたいな目を向けたりする。そんで柳楽くんより少しお姉さんの女学生ですよね。
韓英恵さん。
あの子がいる安心感がすごかった。
そんでアパートの大家が串田和美さんなんだから、きっと大事な役なんだろうと思ったら、全然出てこないじゃないか。
おい、大人!!
誰も知らないって本当つらい。
でも柳楽くんは特に何も言わない。
どんなに大変かってことを言わない。
言わなくても救われるだろうと思ってたら、そんな甘くはなかった。
生き延びていく、ということに必死で、そういう人はいつも取り残される。
是枝さんの作品ってそういう人がダイレクトに搾取されるというか、搾取される人を描いてるんだろうけど、救いがない重さはちょっとつらいですよね。
「万引き家族の」救いのないエンディングがまた思い出された。
でもあの重さは誰にどう届くというんだろう…とは思う。
是枝さんの取り上げるテーマにはすごく関心があるのに、観ただけでは自分が何もできた気がしない絶望が残るというか。音楽はゴンチチ。
ギターがまた沁みました。
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演劇感想3件2023
・「笑の大学」
先日、WOWOWで見ました。
三谷幸喜氏の傑作2人芝居と言われているそうですね。
1998年以来上演されてこなかった伝説のこのお芝居が、なんと今年再演されたと。
(チケットぴあより)
初演は西村まさ彦さんと近藤芳正さん。
今回はそれぞれを内野聖陽さんと瀬戸康史さんが演じる。内野さんは最初、西村さんを思い起こさせるような目つきや声色、折り目正しさで、すごく西村さんっぽかったです。
瀬戸さんがまた「鎌倉殿」の時房アゲインという感じで、あのなんとも言えない弟感は本当に愛らしいですね。物語は戦争の足音が忍び寄る時代の話で、内野さん演じる検閲官の向坂(さきさか)は芝居の台本を片っ端から検閲して上演許可・不許可を判断する。
瀬戸さんが演じるのは劇団「笑の大学」の座付作家・椿。
「こんなものに上演許可は出せない!」と向坂が厳しい顔で突っぱねるところから物語は始まり、最初こそ気持ちが折れそうだった椿も、向坂の無茶な要求を受け入れつつおもしろい本を書いてやろうと奮起するごとに作品も磨きがかかり、向坂も椿の新しい台本を心待ちにする。
笑ったことなど一度もないという向坂は、人を笑わせることに純粋すぎる椿に心が動かされるものの、検閲官という自分の職務にも忠実な男・・・「感動」ということしかもう言えないですね。
すごくシンプルなこのストーリーが愛らしくてたまらない。
瀬戸さんがまた本当に愛らしい演技をされる。
内野さんも心がひん曲がった中年なのに愛らしい。
土星座!!と心で何度も叫んだ(瀬戸さん牡牛座、内野さん乙女座)
何もかもが確かすぎる。
瀬戸さんの「猿股失敬!」のギャグのキレ。
内野さんが「カラス」「武蔵」と言うだけで笑えてしまうこと。
演劇人のこういうとこ本当に尊敬します。
そして蟹座三谷さんの「人間大好き」というハートフルさが舞台を覆う。三谷さんの大河見てても、「ちゃんと適役を当ててる」という安心感がいつもあるけど、「鎌倉殿」での瀬戸さんトキューサ役は今でも時々思い返すほど。
尾上松也さんとのやり取り、あそこだけで胸がいっぱいになるんですよね。
内野さんは「真田丸」で家康役。
家康っていろんな人がいろんなふうに演じてるけど、内野さん家康を見てしまうと、今の大河とかどうなんだろ?と思っちゃう。
内野さんは狡猾な中年役が本当にうまい。それなのに愛らしさをにじませるとこがすごいですよ。
イケメンとかそういう設定じゃない瀬戸さんと内野さんの職人的な演技をTVでも見たいものです。・水谷千重子50周年記念公演「大江戸混戦物語ニンジャーゾーン」
なんでも3回目の50周年記念公演らしいです(バカ言ってる笑)
今回、御崎進(藤井隆)回に行ってきたんですよ!!
(明治座公式サイトより)千重子の公演にはこれまで2回行ってます。
(「キーポンシャイニング歌謡祭」「水谷千重子50周年記念公演」)明治座での公演といえば1幕目が千重子主演のお芝居、2幕目が千重子の歌謡ショー。
前回明治座に行ったときは「なんだかな」という感慨だけで笑えてきましたが、今回のニンジャーゾーンはもしかしたら前回より真面目要素が強かったかもです。
結構複雑で、なかなか頭を使いました。
座席が端っこだったので音声があんまりクリアじゃなかったことも、理解にエネルギーを使ったゆえんかも。また、これまで友近色をほとんど表に出さず千重子に徹していましたが、今回のオープニングはなんとハイヒール講談!福田和子エピソード!!
こんなに福田和子が好きな人見たことない(笑)私が見に行ったのはハリセンボンゲストの日ですが、あの2人はやっぱオーラがありますね。
春菜の声量や的確なツッコミはいつでも胸がすっとしますが、はるかも存在感ありますよ!
声量といえばバッファロー吾郎A。彼のおかげでストーリーを感じることができました。
YOUも色気あるし、的場浩司も相当かっこよかった。
山崎銀之丞もオーラありますね。あと生駒里奈ちゃんの運動神経に惚れ惚れしました。殺陣がすごい!そして第2部の千重子歌謡ショー。
やっぱり以前より真面目路線になった気がします。
歌い方などで曲を茶化すことがぐっと減ったような?そしてお待ちかねの御崎進登場!!
前にクドカンの舞台で藤井さんのお芝居を初めて見たのですが(「のんちゃんの舞台」)、倒れない?と思うほど全力で表現していて、汗がとにかくすごかったのを覚えてます。
今回もエネルギー全開でしたね〜。
「汗がすごい」と千重子にも心配されてた。
進は基本、お世話になった千重子に頭が上がらない尊敬モードなのに、なんの反動かちょいちょいマウント取るんですよね。
ただ千重子が人間できすぎてるので(笑)、「変な子」って思いながらも「進ちゃん」ってうまくなだめる → そこで「はっ!」と自分の非礼さに気づく汗だくの進 → タオルを渡す千重子 → 平身低頭の進 → デュエットへと気持ちを切り替える2人。
このバカバカしさに触れられるってなんて贅沢だろう…とうっとりするほどでした。しかも2人で歌ったのが「ピンクのモーツァルト」
御崎進が「ちぇこさんっぽい」とセレクト。
※ 進は舌が長い時代の名残で、「ちえこ」と発音できないそうです(その後舌を短くする手術をしたそう。なんだかな)藤井さんも歌がうまくてねぇ〜。
「す・い・しょ・ぉ・の…」という高い歌い出しにしびれました。
そうそう、藤井さんが登場してきたときに歌った曲がすごくかっこよかったんだけど、なんでも東京パフォーマンスドールの川村知砂って人の曲みたいです(シャドーダンサー)
知らねーってうっかり笑っちゃうけど、藤井さんがこのマイナー曲を知っていたという驚きというかマニアックさにもじわじわくる。なんたって杏里の「気ままにREFLECTION」ですよ。
藤井さんが強烈で。
この曲をさっき聞いてみましたが超涼やか。あのデュエットの濃厚さはなんだったんだろう笑進がはけたあとは再び千重子ショーで、明菜メドレーはもう嬉しかったですね。
「北ウイング」でまた声が伸びる伸びる。
そんでクライマックスが「タイタニック」と。
あの時はまさかタイタニック号が話題になるとは思わず、このシンクロにただ仰天です。
私の座席は花道の脇でしたが、千重子がその花道でセリーヌ・ディオンを歌っているというのに、千重子と倉たけし(ロバート秋山)主演の和製タイタニック上映に釘付けになっちゃいましたよね。友近はますます歌が上手くなったように思ったし、本当の夢・目的は、こんなふうに腹から美声を響かせることなんだろうなと思ったほどです。
ちなみに家に帰ってからもじわじわきたのは、千重子の「スコッチがお好きでしょ」という曲にそっくりなのを石川さゆりちゃんも出したり、色々千重子に寄せてきてさぁ…とかボヤいてたこと。
「あれ?まただ」と思ったそう。いや、「また」って…・大人計画「もうがまんできない」
こちらもWOWOWで見ました。
本公演の生配信。コロナ禍中に無観客で演じたものの再演で、お笑い芸人役2人をはじめ配役に少し変更があります。
前作も映像で見たけど、今回のその2人が断然よかった…
そう、すごくよかったんですよ。
仲野太賀・永山絢斗。ちなみに前回は柄本佑・要潤。
クドカンといえばイケメンをバカっぽく描くことでなぜか魅力を引き出す演出をしますが、柄本さんと要さんはまだ相当イケメンが残ってた印象。
これがドラマならイケメン要素はもっと消えてたかもですが、舞台だとお二人のスタイルの良さ(身長と顔の小ささ・足の長さなど)が目立っちゃってた気がします。太賀さんと永山さんも相当イケてるはずなのに、見事に男前度が消えてましたよね。
特に永山さんですよ。クドカン作品でおなじみ。
「俺の家の話」とかでも「バカだなぁ〜」という愛らしさ100という感じで、ああいう俳優ってなかなかそうはいないですよね…
でも平岩紙さんとうっすら心が通じ合うとこではちゃんと男前度がよみがえるという(笑)主役は阿部サダヲ。
阿部さんはやっぱりクドカン脚本でこそ引き出される輝きがあるなぁとつくづく思いました。
宮藤さんも役者に当てて本を書いてるだろうから、というのもあると思う。
中井千聖さんとかかわいかった。「一瞬松たか子に見える、ときもある」とか言われてましたね。これも見終わったあとしばらく充実感に浸ってました。
そんで永山さんのことを書いておきたかった。