舞台・映画・本等感想文
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映画「ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ」
(写真はシネマトゥデイより)ホアキン・フェニックスの最初のアップに、またあの痩せ細ったアーサーになっている!と衝撃を受けました。
最初のジョーカーを撮り終えて、アカデミー賞のころにはふっくらしてたのに、この役を前にしてまたハードな体づくりをしたのでしょう。
背中とかあちこちから骨が見えていた。アーサーは第1作の終盤で逮捕されたので、今作の舞台はほぼ刑務所内。
あと裁判が始まったので裁判所にも護送される。
相変わらず貧相なアーサーだけど、その存在は神格化されていた。
ジョーカーの格好でロバート・デ・ニーロ演じる大物コメディアンに生放送で物申し、あげく銃殺。
その様子がお茶の間に流れ、TV局から逃げたアーサーが捕まるまでの間にジョーカーに自分を重ねて感激した庶民が街に溢れていた。しかもアーサーはすでに複数人を殺害していたのだから、どんな言い分も境遇の独白も同情すべきものではないんだけど、そんな倫理観も制止もむなしく、アーサー/ジョーカーこそ自分達の代弁者だと熱くなる人が増殖して、このあたりで映画としての評価の賛否が激しく分かれてたようですね。
ただ映画としても、「アーサーはめちゃ愚か」ということが殊更描かれてたように思いました。
こんな男、信奉するに値しないよ・・みたいな感じで繰り返し愚かさが描かれてた。
確かに第1作のアーサー/ジョーカーはちょっと愛らしかった。私にとっても。
バカすぎるんだもの…
たぶん、アーサーのこれまでの人生は怒りと悲しみに満ちていて、あと理不尽な目にもどれだけあってきたことか。
だけど、それをうまく言語化できる人じゃない。
自分の置かれた境遇を社会問題とつなげて怒りに変えるとか、改善に向けての行動に何も結びつけない・つけようとしない、結びつけられないのか?というあたりの幼さがすごくよく描かれててたんですよね。
自分がつらい目にあってるのかどうかすら直視してないような。
だからコメディアンになる妄想に逃げる。
ヒーローになる妄想も。
それはいつしか現実と区別できないほどの病的なものに。
それがまた悲しくて・・
こういう人が怖いのは、「感じる」というところを一気にスルーして「怒り」にすぐ結びついちゃいそうなところ。
そうなったら行動は早い。銃を手に入れたらすぐ撃ってみたりする。危ない!!アーサーは刑務所内で生活してても相変わらず何も深まってないように見えたんですよね。
ただ、囚人仲間からも崇められたり、街の熱狂的なアーサー支持者の声がムショ内のTVで流されたりもするからか、一見かっこよくなっちゃってんですね。
たばこの吸い方がわりかし渋くなってたりとか。
そんで無口だから、拘留中の女(レディー・ガガ)からポーッとした視線を受けたりする。
さすがのアーサーもこのモテ感で自意識が芽生えたらしく、「自分見られてる」とかに敏感になって、それっぽくレディー・ガガに近づくくらいはできるように!
この2人はどっかでヤっちゃうだろうな…と感じさせるほどの惹き合いで、ただ、そうはいっても囚人。
そんなチャンスあるんかな・・とか思いながら映画見てましたね。ちょっと驚いたのが、「フォリ・ア・ドゥ」はミュージカルっぽい作りだったこと。
それでレディー・ガガか!と。
ホアキンの歌声がまたいいんですよね〜
ヘタウマなしゃがれ声が切ないのなんのって。
第1作もアーサーがみじめすぎて愚かすぎて、これはコメディーじゃないのか?と思うほどでしたが、第2作はコメディー要素がわりとはっきり感じられました。
レディー・ガガと夫婦漫才やってんですよね。妄想で!!
でもこのシーンは切なかった。
ジョーカーとガガのコンビいいじゃん!ってすごく思ったけど、現実としては6人も殺した男がこんな楽しいステージに立つことはない。
だけど、妄想上のジョーカーは「間」とかバッチリなんですよね。
レディー・ガガにマイクを奪われて、「僕もステージにいるんですけど?」って置き去りにされたときのトボけ仕草はちゃんとコメディアンしてるというか。
レディー・ガガも相当ヤバい役でしたが、ああいう女いそうだなって思った。
セクシーに物憂げに振る舞うけど、「あなたが欲しい」、それ以上でも以下でもないように見えた。
男の威光を自分のものにしたい。
「私はあなたと山を築きたい」
レディー・ガガ演じるリーが何度もアーサーに言う言葉。
これはいくつかの考察を読んで初めて知ったことですが、とある目的の比喩らしく。
第2作の目玉展開といえば、アーサー/ジョーカーの裁判。
全米注目の裁判で、傍聴を求める人で溢れかえったりする。
リーも「見に行くわ」とアーサーと約束したので、もうアーサーがそわそわしちゃって(笑)
渋い自分を装ってても、こういうとこでモテなさが出ちゃう。
リーの姿を見つけると、授業参観で母親を振り返る子どもみたいに何度も傍聴席に顔を向けて、時にはリーだけにこっそりメッセージ送ってんですよね。
(次回はもっと前に来て!)みたいな。全然こっそりじゃないやつ。
なんの映画だよ!って、壮大なんだか卑小なんだかこのあたりがジョーカーのおもしろいとこで。
みんなお前を見てんだから、世紀の裁判。
なんでこっそりが成立すると思うのか、こんなにバカだなぁと思いながら愛着も芽生えるというのは寅さん以来です。あとジョーカーのおもしろいとこは、荒唐無稽さがナチュラルに描かれるとこですかね。
アーサーがジョーカーのメイクで証言台に立ったりとか。
なんで許されるんだよ。
このメイクをしたほうが饒舌になれるからと。
そんであちこち動き回ったり、座り込んで頭を抱えたり。
だけど大仰さを許してこそ、確かに事件の核心・アーサーの気持ちがぽろぽろと語られる。
この第2作での荒唐無稽度No.1はレディー・ガガが「来ちゃった」とこですかね。
独房に来ちゃった。
お金や権力があれば可能なんだろうか?
いや、絶対なしだろう。でもアメリカなら…?
考察ではアーサーの妄想説も見かけました。
でも妄想にしては、第1作のテッテレーみたいな種明かし映像もなかったし。
そのテッテレーの妄想で勝手に恋人として描かれてたアーサーの隣人女性も証人として立ってましたね。
アーサーの同僚も来ていた。低身長のあの優しそうな彼。
この彼の証言で、アーサーはかなり揺さぶられた。
自分は誰から見ても透明人間か忌み嫌われる男と思ってたのに、自分を肯定的に見つめるまなざしがあった。
それを救いとして受け入れるには遅すぎたというか、自分への愛を自分こそが拒絶していたことに気づいたんじゃないだろうか。
アーサーから一気に脆さが溢れ出す。
その証言を見ていたリーは、心が離れた。私が個人的に思ったのは、男女の惹き合い、そのスピード感ってやっぱり当てになんねぇなということ。
アメリカって特にスピーディー展開こそ最上の愛みたいに描くけど、ヤりたいだけというか、そこまでの過程をいかにドラマチックに描くかに命をかけていて、後半はあっけなく別れが描かれたりする。
日本みたいに、最初の出会いの通じ合いこそが運命性・永遠性の象徴って感じじゃない。
あと女は「こうでありたかった自分」が投影された人を好きになるんだろうかな。
女が自分より社会的地位が上の人とか、芸術性・表現力のあたりで輝く人を好むのは、女である以上越えがたい壁を突破して躍動してるような人に、自分の未開の何かを託してるんじゃないかと思うことがある。
そうであるなら、リーにとって「脆い男」は不要ということか。
でも並の女なら、愛する男の脆さを目にすれば、一層愛しくなるもんじゃないのかとも思いますけどね。
またアーサーも、自分の主役性を奪うリーへの潜在的な不安というか予感が妄想に表れる。
夫婦漫才でも、いつの間にかリーのオンステージになっちゃうんですよね。
それがいつも耐えられないアーサー。
いいよいいよ、君の表現力も最高だよ…とはあんまならない。
アーサーは表現者としての相棒を求めてたわけじゃない。
「あなたは最高よ」っていついかなる時も讃えてくれなければ意味がない。
男もまた母親レベルの肯定感と包容を相手に求め続けている。
アーサーは母親の愛に飢えてたので特にね・・
最後はちょっとショックでしたね。
ここには書かないけど、パート3はもうないですよって宣言でもあるのかな。
待ち望んでも無理ですよって。
第1作が終わって、アーサー/ジョーカーの余韻が膨れ上がってしまった人は多かったと思う。
私もかなり余韻を引きずりました。
だから、2作でまたアーサーと会える!という喜びは少なからずあった。
それは社会的にいい心持ちじゃないかもねと、制作側もそんな人を諭す仕掛けを映画のあちこちに散りばめてたように勝手に感じたりした。
とはいえ、私は第2作の夫婦漫才が結構な余韻として残ってますね。
夢でしかないあの時間。夢だからこそのきらめきがあったんですよね… -
武田砂鉄「父ではありませんが」
武田砂鉄さんの本を初めて読みました。
タイトルにひきつけられた。
(父ではありませんが 第三者として考える)
武田さんは「父ではない自分」から見える・感じることを率直に書いている。
その率直さにすごく揺さぶられたんですよね。
武田さんは既婚ですが私は未婚。
共通点は子なしということだけど、本では「わかるわかる!」と思うことばかり。
その一方で「ここまで書いちゃうのすごい」と、ドキドキする。というのは、「子がいない」という立場で家庭や子どものことを語る・書き表すって勇気がいるじゃないですか。
「でもあなたは子がいないでしょ」「経験してない人には絶対わからない」と人に言われることをすごく恐れると武田さんは語る。
そうなんだよ。
「この件に関して発言権がない(のだろう)」と思ってしまう。
それは誰の思いを汲み取ろうとしてるのか、自分もよくわからない。*****************************************
友人が自分の子を小学校受験させようか、とても悩んでいたとき。
私は自分なりの意見を言った。
学生時代からのこの友人グループはいつでも率直に意見を交わし合ってきて、「思ったことを言うね」というやりとりができる貴重な仲間だと、みんな互いに思い合っていると感じていた。私が意見の半分も言わないうちにもう1人、子がいない友人が私を制した。
「うちらは何も言える立場じゃないよ」あ、そうだっけ?
でも、そしたらあらゆる子ども関係のこと、どんな意見も言えないじゃないかと憮然ともしたけど、悩んでた友人も私の意見を聞きたいわけじゃなさそうだったので、そのまま黙った。
それはもう10年くらい前だけど、今なら「悩んでる人の話をとにかく聞く・受け止める」って、まずそれか…と思える。
意見なんて求めてねぇぞと。
あろうことか私は子どものいない立場でアドバイス的な発言をしようとした。
どんなテーマでも話し合える関係性の私たち、みたいなことに甘えすぎてた自覚もある。
そうやって、あのときのことをいまだに反省する。が。
いまだに反省ってなんだよ。
武田さんの本を読んで何かが蒸し返された。
子どもがいないと、やたら申し訳なく思ったりする。
産んでないことに対してじゃなくて、「気遣いがもし足りてなかったらすみません」みたいな。
あとやたら自分を安く差し出す。
「自分はほら、子どもいないし時間たっぷりあるのでじゃんじゃん使ってください」とか、主に労働の現場で。
「子どもがいない立場でのあるべき姿」というのをずっとずっと模索してきた気がします。
それはとても苦しかったし、「べき」とかを探らなくてもいいんじゃないかと、
武田さんの本を読んで思ったわけで。40代で未婚・子なしという日々は、体感としてそう悪くない。
だけど世間の40女の価値の低さよ!
ネットニュースの見出しを見てもさんざんな疎まれようで、結婚願望あり・子なしの要素が加わるとさらに雑巾みたいな扱いになる。
「誰が雑巾拾うねんww」みたいなコメント。
どうしてこんなことになってるんでしょうね。
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映画「PERFECT DAYS」
(MOVIE WALKER より)
上映中なのでストーリーには触れないようにします。
率直な感想としては今の日本の映画界からはこういう作品は生まれないだろうなということ。
なんて、わかったように言っちゃうけど、外国人の目線でしか見えないことがあって、その「外国人の目線」という説得力がないとこういう作品は作れないんじゃないか。
いい映画を見た、それだけでいいはずなのに、不思議な寂しさが漂う。
切ない映画でもあった。だから帰路に感傷的になっただけかも。
物語の舞台は、スカイツリー周辺の下町と渋谷区周辺。
役所さん演じる平山は下町のアパートに住んでいて、毎朝早くからトイレ清掃員として車を西へと走らせる。いつからかスカイツリーは下町のシンボルとなり、東京タワーはリッチさの暗喩となる。
スカイツリーのふもととなればある種の生活水準がイメージされ、特にドラマだと古びたアパートや銭湯がよくセットで描かれますね。
私自身、近いエリアに住んでいるので、この地域に豊かな何かが見出されるのは嬉しい。
豊かさだらけだよ、ということを知ってると思えるというか。リッチな人に「全然豊かじゃないし」と言われりゃ、そうかもね、なんつって話を打ち切るだろう。
話にならない。会話が成立しない。
冷笑するならほっといてくれ。
平山はそんなことすら言わないけど、時々お金や持ち物のほうから冷笑しにやってくる。
それは避けられなくて心が乱されるけど、そんな日もあるよね。冷笑したのは自分かもしれない。
外国人っぽい視点だなということ。
平山はヨーロッパにいそうな年配者でも日本にはいないんじゃないのか。
ついそうやって視線の熱感を下げようとするけど、そのうち自分を重ねて見ていた。
自分の10年後、20年後の想像ってなかなか恐怖で、今と何も変わらなかったらどうしようとか。
10年なんか経たなくても、今でも膝抱えて音楽聴いてていいのかとか、誰かの目線が下ってくるような妄想。そりゃ社会経験や地位の上昇を重ねれば、積もる感慨や選ぶ言葉も成熟したものになるのだろう。
幼稚さの発露を恐れ、隠し、「まぁこんなもんだろ」という装いで外に出る。
「どんな自分だっていいだろ」と思える日のほうが少ない。どこかびくびくしてる。
目に見えるものを自分だって積み重ねてきたかった。
どこまでいっても社会的な評価ばかり気にして、年を重ねることを恥ずかしいと思う。
それらから自由になれるのがたった1人の時間。
結婚の話題になったときの役所さんの顔が宇宙人みたいでした。
何も読めない。
そういう顔の平山が随所に見られ、
「この件に関してどう思うのか?」ということの回答をいちいち持ち合わせない人っているよね、と思った。
私なんてのは聞かれもしないことの答えを律儀に用意しといたりする。
人を納得させられるように。
その機会は別にきやしないのだから、平山みたいに大いに戸惑ったっていいんだ。
エンディングの役所さんの表情はすごく想像力がかき立てられるものでした。
私の想像。
・ゆうべの交流の感動
・ひどく悲しい(ある人の告白)
・心からほっとした(また変わらない日常と交流)
・大好きな曲が妙に沁みるときって、あるんだよなぁ…自分と同じじゃないか。
あと空と川と植物はずっと見てても飽きない。
飽きないんだよなぁ…と、映画見た直後くらいはそういう時間をたっぷり取りたくなりました。
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好きな漫画2023
した。
(画像は「湯遊ワンダーランド」Amazonページより)
もう本当に癒やしの漫画で、この年になってもこんなに惹かれる漫画と出会えることが嬉しい。
→ 私にとって「癒やし」とはある種の不気味さを感じられること。
「アル中」でもおなじみの”フェイクプレーン”がまた出てくるところがたまらない。
あと弟の「やっちゃん」も安定の不気味さです。今流行りのサウナがテーマですが、「ととのう」とかがメインストーリーじゃなくて本当によかった。
いや、これからととのっていくのかもだけど、1巻の半分を読んでもまだ水風呂に入れない主人公。
銭湯のヌシと会いたくないから時間をずらしたり、犬の散歩で会う人とも顔を合わせたくない。
小心さに加えて、思い込みも激しすぎる。
不気味さってなぜこんなに癒やしなんだろう。
どこか自分を見ているような、自分が漫画内で躍動してるように思えるからなんだろか。思えば私が好んで読んでいる作家さんの漫画は、大体不気味要素ありです。
・つげ義春「ねじ式」「紅い花」「李さん一家」「ゲンセンカン主人」など
・上村一夫「同棲時代」「サチコの幸」
・沖田×華「透明なゆりかご」「お別れホスピタル」「不浄を拭うひと」
・大橋裕之「シティライツ」
共通するのは主人公のダメさがにおい立つようなところで、純粋すぎるのか社会から浮きまくる。
「浮きまくる」ってとこが不気味なんだと思うけど、自分と似てる気がするから癒やされる。
生きるにあたって自分はヤバさをだいぶ押し込めてるんだなと気づきますよね。
心惹かれる主人公たちは押し込められずに露出しちゃうから苦しみまくる。
それを見るのが楽しいというかバカだな…っていうか、自分はもっとうまくやってるぞ…と思えるものの、自分こそいつ社会でつまずくかしれないドキドキが漫画で刺激されるのも楽しい。
沖田さんの漫画にはどこかしら病んでいる人が大勢出てきて、自分とは切り離せない地続きの姿が描かれてるように感じるんですよね。(画像は「不浄を拭うひと(1)」Amazonページより)
そして泣ける話が多い。
「透明なゆりかご」はドラマ化されてない話もたくさんありますが、どれも胸を打つ。
子どもにまつわる選択は本当、人それぞれだし、赤ちゃん・子どもには何の罪もない。
それなのに…という事態の連続で、「命」のインパクトがすごい漫画ですよね。
個々人の選択は時に強烈で不気味だったりする。
来年は「お別れホスピタル」がNHKでドラマ化決定したようで楽しみ!
「ゆりかご」と同じチームというのも期待大です。大橋裕之さんの漫画にもヤバいやつがたくさん出てくる。
しかも突き抜けてないヤバさだから町で嫌われたりしてて、孤独度がすさまじい。
よくいる犯罪者のように、物語内でも逆上して目につくものをめちゃくちゃにしようとするんだけど、そこで奇跡が起きたりする。
その急なスケールアップに感動しますよね。このスケールは、つげ義春「海辺の叙景」のラストシーンを思い起こす。
あの海一面のページにはなぜか泣けるんですよね。上村一夫「同棲時代」は「性」の不気味さが際立ってます。
一緒に暮らしてても大して幸せそうじゃない。(画像は「同棲時代」Amazonページより)
だけど激しく求め合うし、どこでも「しましょう」と誘う。
性行為はごまかしであり一区切りであり、心を埋めるもの。
今日子と次郎を見ていると、男女は昔っから愛と性と「幸せになること」の乖離を埋められずにもがいてきたんだと感じる。何事かと思うような不気味さ満載の物語ですが、圧倒的な画力と詩的なモノローグに引き込まれるのです。
どの漫画にも真実など表現されてない。
表現したいものを各々が自由に表現している。
こうして並べて思ったのは、私自身これからはもっと適当に生きたいなと。
自分の中の真実味を誰かに信じて欲しかったのがこれまでだとして。
誰かに届けようなんてことはもう手放して、楽しく遊ぶことにもっと重点を置ければ。
私には画力がないから言葉で遊べたらいいんだけど。
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「怪物」「誰も知らない」
先日、是枝裕和監督の映画「怪物」を見てきました。
そしたら最近、「誰も知らない」の配信もされてるというじゃないですか。
ずっとされてなかったのに、怪物上映記念でしょうか。
なのでこちらも視聴。
「怪物」は上映中なのであまり中身に触れないようにして、感想にとどめておきます。(映画comより)
映画終了後のクレジットで、音楽:坂本龍一氏だったことを思い出しました。
ピアノや金管楽器の音色に何度も涙腺刺激されたけど、友達と一緒だったから我慢してしまった。是枝作品といえば子どもなんですよね。
監督が描く子どもにやたら泣けてしまう。
でもみんなそういうわけじゃないみたい。
一緒に行った友達からも感動という声は聞かなかったし、「万引き家族」で私が泣いたところも別の友人と共感し合えなかった。
でも今回さすがに美しく描かれすぎかなとは思いつつ。
でも、よくこんな景色ありましたね!と、その美しさと少年とのマッチングにまんまと感動した。映画見る前になんとなく思ってた安藤サクラの役が想像と違ってて、なんかモワモワというかゾワゾワして落ち着かなかった。
え!こういうこと言っちゃう?坂元裕二脚本だから?ってずっと動揺しながら見てて、でもとあるセリフで自分の心の方向が定まった気がした。
「悪気はない」「よかれと思って」って本当嫌だなと思って。
「お母さんはよかれと思って…!」とか嫌だなぁと。
自分にもそういうとこあるし、よかれは避けられないんだけど、それが浮き上がるのは坂元作品だからかな。この映画はいろんな仕掛けがあって、そういう動揺や戸惑いはもうしょうがないと思う。
わかんないところもいくつかあって、多分いいセリフなんだろうと思っても、そう受け止められなくて、でも田中裕子さんならどっちでもいいと思った。どっちでも受け入れようと。瑛太ですよ。怖い。
いや、これも仕掛けがあって、あとでいろいろわかるけどどうしても怖くなる悲しさがあった。
そういう人いるよね。
自分もそうかもしれない。
一生懸命になるほど周りが引いていくような。
そんで当たり障りない人が評価されている。
「加減」がわからない人の悲しさかもしれない。そして男の子たち。
安藤サクラの息子役の子はどこか柳楽くんを彷彿とさせる雰囲気があった。
そんで星川くんはなんと、「ラストマン」の福山さん子ども時代の子と!気づかなかった!
彼らのシーンがたっぷり描かれたのが救いでした。
泣こうと思えばどこでも泣けた。男の子たちを「わかる」と思う感性は、でも同じ年くらいのあのころの私にはなかったかな。
もうその感性はあのころ随分曇っていた。自分で自分をごまかしていた。
年をとるごとに「わかる」と思えるのは、あのころよりずっと安全圏にいるからと思う。
安全な環境じゃないと、そんな感性に正直になれるはずもない。そんな恐ろしさの中で努めて友好的に過ごしてきたなとつくづく思った。
でもごまかせない子もいて、ごまかしたくない子というか、良く言えばピュアなんだろうけど、学校みたいな場では危険なほど目立ってしまう。
それを脅威と思う側の残酷さもたっぷり描かれる。そして是枝さん、クリーニング屋好きだなぁ!とも思いました。
「誰も知らない」
(U-NEXTより)あのころの柳楽くんをやっと見れた!という感動。
なんと!柳楽くんの妹役の女性が「怪物」にも出られてたようで。どんな残酷な映画だろうと心して臨んだけど、是枝さんは残酷さを描くことを努めて避けたんじゃないかと感じました。
というのは、まず子どもが泣かない。
汚いシーンがほぼない。
なんだかんだ人と触れ合っている。それにしても「おい、大人!!!」というツッコミが波のように押し寄せますよね。
「大人!このっ…!ここで頼むから!」と懇願したくなる子どもだけの生活。
母親役はYOUで、あの役はYOUしかできないなと感慨深くなりましたよね…
なんというか、これまでも貧困映画いろいろあったでしょうけど、あんなに眉が細くて髪が明るくて声がかすれてて、そういう役作りをしなくてもYOUのままで成立する頼もしさというか。
そんで、YOUが子どもとめちゃコミュニケーション上手で、だめじゃん!とも思った笑
いや、いいのか?
愛に溢れすぎる家族シーン。
じゃあなぜ・・!!!!という切なさでまんまと苦しくなったから、いいのか…柳楽くんの何がすごいって、焦燥感と罪悪感ですかね。
あとちゃんと子どもなところ。
そりゃこの年だと遊びたいよね…という笑顔の後に駆け足で帰ってくるような。
そんで待ってる弟や妹みんな無表情、みたいなとこ。
柳楽くんが日々どんだけ下の子たちを思って食料調達や金策に走ってるか、誰も知らない。
そのまさに「誰も知らない」というところが時間差でじわじわきて、その後1日ずっと泣いてしまうようなメンタルだった。
是枝さんの作品っていつもそんくらい重いんですよね…誰も知らない。この残酷さ。
泣き顔や汚さが映らなくても、このタイトルと柳楽くんの奔走だけで胸が詰まる。
外に出れない妹や弟。
柳楽くんのすぐ下の妹の子も相当うまくて、自分の赤い爪の中にしか世界がないような表情。
その下の弟はあんなにふざけBoyだったのに、無表情になっていく。
その下の妹はひときわ目が大きくて、父親はたぶん違うけどそんなことは知らない。
柳楽くんに保護者の責任果たしてほしいみたいな目を向けたりする。そんで柳楽くんより少しお姉さんの女学生ですよね。
韓英恵さん。
あの子がいる安心感がすごかった。
そんでアパートの大家が串田和美さんなんだから、きっと大事な役なんだろうと思ったら、全然出てこないじゃないか。
おい、大人!!
誰も知らないって本当つらい。
でも柳楽くんは特に何も言わない。
どんなに大変かってことを言わない。
言わなくても救われるだろうと思ってたら、そんな甘くはなかった。
生き延びていく、ということに必死で、そういう人はいつも取り残される。
是枝さんの作品ってそういう人がダイレクトに搾取されるというか、搾取される人を描いてるんだろうけど、救いがない重さはちょっとつらいですよね。
「万引き家族の」救いのないエンディングがまた思い出された。
でもあの重さは誰にどう届くというんだろう…とは思う。
是枝さんの取り上げるテーマにはすごく関心があるのに、観ただけでは自分が何もできた気がしない絶望が残るというか。音楽はゴンチチ。
ギターがまた沁みました。
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演劇感想3件2023
・「笑の大学」
先日、WOWOWで見ました。
三谷幸喜氏の傑作2人芝居と言われているそうですね。
1998年以来上演されてこなかった伝説のこのお芝居が、なんと今年再演されたと。
(チケットぴあより)
初演は西村まさ彦さんと近藤芳正さん。
今回はそれぞれを内野聖陽さんと瀬戸康史さんが演じる。内野さんは最初、西村さんを思い起こさせるような目つきや声色、折り目正しさで、すごく西村さんっぽかったです。
瀬戸さんがまた「鎌倉殿」の時房アゲインという感じで、あのなんとも言えない弟感は本当に愛らしいですね。物語は戦争の足音が忍び寄る時代の話で、内野さん演じる検閲官の向坂(さきさか)は芝居の台本を片っ端から検閲して上演許可・不許可を判断する。
瀬戸さんが演じるのは劇団「笑の大学」の座付作家・椿。
「こんなものに上演許可は出せない!」と向坂が厳しい顔で突っぱねるところから物語は始まり、最初こそ気持ちが折れそうだった椿も、向坂の無茶な要求を受け入れつつおもしろい本を書いてやろうと奮起するごとに作品も磨きがかかり、向坂も椿の新しい台本を心待ちにする。
笑ったことなど一度もないという向坂は、人を笑わせることに純粋すぎる椿に心が動かされるものの、検閲官という自分の職務にも忠実な男・・・「感動」ということしかもう言えないですね。
すごくシンプルなこのストーリーが愛らしくてたまらない。
瀬戸さんがまた本当に愛らしい演技をされる。
内野さんも心がひん曲がった中年なのに愛らしい。
土星座!!と心で何度も叫んだ(瀬戸さん牡牛座、内野さん乙女座)
何もかもが確かすぎる。
瀬戸さんの「猿股失敬!」のギャグのキレ。
内野さんが「カラス」「武蔵」と言うだけで笑えてしまうこと。
演劇人のこういうとこ本当に尊敬します。
そして蟹座三谷さんの「人間大好き」というハートフルさが舞台を覆う。三谷さんの大河見てても、「ちゃんと適役を当ててる」という安心感がいつもあるけど、「鎌倉殿」での瀬戸さんトキューサ役は今でも時々思い返すほど。
尾上松也さんとのやり取り、あそこだけで胸がいっぱいになるんですよね。
内野さんは「真田丸」で家康役。
家康っていろんな人がいろんなふうに演じてるけど、内野さん家康を見てしまうと、今の大河とかどうなんだろ?と思っちゃう。
内野さんは狡猾な中年役が本当にうまい。それなのに愛らしさをにじませるとこがすごいですよ。
イケメンとかそういう設定じゃない瀬戸さんと内野さんの職人的な演技をTVでも見たいものです。・水谷千重子50周年記念公演「大江戸混戦物語ニンジャーゾーン」
なんでも3回目の50周年記念公演らしいです(バカ言ってる笑)
今回、御崎進(藤井隆)回に行ってきたんですよ!!
(明治座公式サイトより)千重子の公演にはこれまで2回行ってます。
(「キーポンシャイニング歌謡祭」「水谷千重子50周年記念公演」)明治座での公演といえば1幕目が千重子主演のお芝居、2幕目が千重子の歌謡ショー。
前回明治座に行ったときは「なんだかな」という感慨だけで笑えてきましたが、今回のニンジャーゾーンはもしかしたら前回より真面目要素が強かったかもです。
結構複雑で、なかなか頭を使いました。
座席が端っこだったので音声があんまりクリアじゃなかったことも、理解にエネルギーを使ったゆえんかも。また、これまで友近色をほとんど表に出さず千重子に徹していましたが、今回のオープニングはなんとハイヒール講談!福田和子エピソード!!
こんなに福田和子が好きな人見たことない(笑)私が見に行ったのはハリセンボンゲストの日ですが、あの2人はやっぱオーラがありますね。
春菜の声量や的確なツッコミはいつでも胸がすっとしますが、はるかも存在感ありますよ!
声量といえばバッファロー吾郎A。彼のおかげでストーリーを感じることができました。
YOUも色気あるし、的場浩司も相当かっこよかった。
山崎銀之丞もオーラありますね。あと生駒里奈ちゃんの運動神経に惚れ惚れしました。殺陣がすごい!そして第2部の千重子歌謡ショー。
やっぱり以前より真面目路線になった気がします。
歌い方などで曲を茶化すことがぐっと減ったような?そしてお待ちかねの御崎進登場!!
前にクドカンの舞台で藤井さんのお芝居を初めて見たのですが(「のんちゃんの舞台」)、倒れない?と思うほど全力で表現していて、汗がとにかくすごかったのを覚えてます。
今回もエネルギー全開でしたね〜。
「汗がすごい」と千重子にも心配されてた。
進は基本、お世話になった千重子に頭が上がらない尊敬モードなのに、なんの反動かちょいちょいマウント取るんですよね。
ただ千重子が人間できすぎてるので(笑)、「変な子」って思いながらも「進ちゃん」ってうまくなだめる → そこで「はっ!」と自分の非礼さに気づく汗だくの進 → タオルを渡す千重子 → 平身低頭の進 → デュエットへと気持ちを切り替える2人。
このバカバカしさに触れられるってなんて贅沢だろう…とうっとりするほどでした。しかも2人で歌ったのが「ピンクのモーツァルト」
御崎進が「ちぇこさんっぽい」とセレクト。
※ 進は舌が長い時代の名残で、「ちえこ」と発音できないそうです(その後舌を短くする手術をしたそう。なんだかな)藤井さんも歌がうまくてねぇ〜。
「す・い・しょ・ぉ・の…」という高い歌い出しにしびれました。
そうそう、藤井さんが登場してきたときに歌った曲がすごくかっこよかったんだけど、なんでも東京パフォーマンスドールの川村知砂って人の曲みたいです(シャドーダンサー)
知らねーってうっかり笑っちゃうけど、藤井さんがこのマイナー曲を知っていたという驚きというかマニアックさにもじわじわくる。なんたって杏里の「気ままにREFLECTION」ですよ。
藤井さんが強烈で。
この曲をさっき聞いてみましたが超涼やか。あのデュエットの濃厚さはなんだったんだろう笑進がはけたあとは再び千重子ショーで、明菜メドレーはもう嬉しかったですね。
「北ウイング」でまた声が伸びる伸びる。
そんでクライマックスが「タイタニック」と。
あの時はまさかタイタニック号が話題になるとは思わず、このシンクロにただ仰天です。
私の座席は花道の脇でしたが、千重子がその花道でセリーヌ・ディオンを歌っているというのに、千重子と倉たけし(ロバート秋山)主演の和製タイタニック上映に釘付けになっちゃいましたよね。友近はますます歌が上手くなったように思ったし、本当の夢・目的は、こんなふうに腹から美声を響かせることなんだろうなと思ったほどです。
ちなみに家に帰ってからもじわじわきたのは、千重子の「スコッチがお好きでしょ」という曲にそっくりなのを石川さゆりちゃんも出したり、色々千重子に寄せてきてさぁ…とかボヤいてたこと。
「あれ?まただ」と思ったそう。いや、「また」って…・大人計画「もうがまんできない」
こちらもWOWOWで見ました。
本公演の生配信。コロナ禍中に無観客で演じたものの再演で、お笑い芸人役2人をはじめ配役に少し変更があります。
前作も映像で見たけど、今回のその2人が断然よかった…
そう、すごくよかったんですよ。
仲野太賀・永山絢斗。ちなみに前回は柄本佑・要潤。
クドカンといえばイケメンをバカっぽく描くことでなぜか魅力を引き出す演出をしますが、柄本さんと要さんはまだ相当イケメンが残ってた印象。
これがドラマならイケメン要素はもっと消えてたかもですが、舞台だとお二人のスタイルの良さ(身長と顔の小ささ・足の長さなど)が目立っちゃってた気がします。太賀さんと永山さんも相当イケてるはずなのに、見事に男前度が消えてましたよね。
特に永山さんですよ。クドカン作品でおなじみ。
「俺の家の話」とかでも「バカだなぁ〜」という愛らしさ100という感じで、ああいう俳優ってなかなかそうはいないですよね…
でも平岩紙さんとうっすら心が通じ合うとこではちゃんと男前度がよみがえるという(笑)主役は阿部サダヲ。
阿部さんはやっぱりクドカン脚本でこそ引き出される輝きがあるなぁとつくづく思いました。
宮藤さんも役者に当てて本を書いてるだろうから、というのもあると思う。
中井千聖さんとかかわいかった。「一瞬松たか子に見える、ときもある」とか言われてましたね。これも見終わったあとしばらく充実感に浸ってました。
そんで永山さんのことを書いておきたかった。